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無灯火逆走自転車とドライバーの恐怖【25/1/4】

陽が落ちるのが早くなり暗い道を車で運転していると、無灯火で逆走してくる自転車が怖い。音もなく現れライトも反射板もないまま暗闇を漂うその姿はまるで「命知らずの幽霊ライダー」。

 

しかも、ただ逆走しているだけではない。スマホを片手に操作しながら走る者、両手を離して楽しげにバランスを取る者もいる。一体どういう気持ちでそんな危険なチャレンジをしているのか。彼らには「危険」という概念がそもそも存在しないのだろうか。

 

ドライバーからすれば、無灯火逆走自転車は事故のリスクを超えた「人生リセットスイッチ」だ。ぶつかれば車側が責任を問われることが多いというこの理不尽さ。相手の行動がどれほど危険であっても車側に「もっと注意すべきだった」という判決が下ることもある。

 

そう考えると、運転中に無灯火逆走自転車が現れるたび「頼むからどっか行ってくれ」と祈るしかない。そして彼らがスマホに夢中になっているのを見ると「次に目を離すときは自分の命だけでなく、こっちの人生も確認してくれ」と言いたくなる。

 

彼らが「危険だった」と気づく日は恐らく自分が事故に遭ったときだろう。そのとき初めて「もう少し安全運転を心がけるべきだった」と思うかもしれない。

 

『ソニック × シャドウ TOKYO MISSION』感想 ※ネタバレ注意

sonic-movie.jp

 

映画『ソニック × シャドウ TOKYO MISSION』を観ました。実を言うとソニック映画の前作・前々作は観ていません。理由は単純でソニックの声がどうしても馴染めなかった。やっぱりソニックの声優は金丸淳一さんじゃないと、、、というのが自分の中での固定観念としてあって。さらに予告編を観たときも少し引いてしまった部分があった。

 

そんな中で今回の映画を観に行った理由は「ソニックアドベンチャー2(以下ソニアド2)」が大好きだから。観ないといけない!という使命感に駆られて行ったわけですが、ソニアド2の要素がたくさん盛り込まれていて本当に嬉しかった。例えばスペースコロニーを彷彿とさせる舞台や、月を破壊するシーンは「原作にもあったなー」と胸が熱くなりました。ソニアド2の楽曲も使われていてファンとしてはたまらないポイントでした。

 

とはいえシャドウの声についてはやっぱり遊佐浩二さんが良かったなと思ってしまいます。今の声優さんも悪くはないのですがどうしても思い出補正には勝てないなぁって。そしてキャラクターの掘り下げが少し物足りなく感じました。特にシャドウの葛藤や、マリアとの関係性をもっと深く描いてほしかったな、そこが大事なんじゃないの?マリアの死に方も軽く扱われているように感じましたしエッグマンの祖父であるジェラルドが「生きている」という設定も違和感があった。あのキャラは「死刑された」という背景が重要だったんじゃないかな?生きてちゃコメディに振りすぎだよ。

 

さらに言えばソニアド2の名台詞をもっと活かしてほしかった。「マリア、これでいいんだろ?」とか「すべてのものに復讐を」といった言葉が作品に持つ深みを増していたはず。そういう部分を拾いきれていないのが少し残念。

 

まぁでもラストバトルは原作要素が詰まっていてゲームのリザードの赤い球を映画で表現したのは良かった。がしかし、そこを中心に据えるべきだったかなと思います。そこから終わりに向けてやりたいことが散らかってしまった印象。次回作への布石が強すぎるあまり一作としての完成度を犠牲にしてしまったように感じた。

 

総評としては「普通に良かった」。細かいネタやオマージュもあったのだろうけれどそれがわからなくても十分楽しめる内容でした。ただ次回作を作るなら一作一作をもっと大切に作ってほしいな観に行かないと思うけど。

 

瞳の日に思う視力とゲームの話【25/1/3】

1月3日は「瞳の日」だそうだ。目に関する記念日と聞い、真っ先に思い浮かぶのは、自分の視力の話。かつて、視力は0.1以下でメガネがなければ何も見えない生活。でも今ではICL手術のおかげで裸眼でも日常生活が送れるようになった。昔の視力が悪くなった原因を思い返してみる。

 

それは間違いなくゲームボーイアドバンスSPだ。充電式バッテリーに画面ライト付きのあの革命的なゲーム機が私の視力を低下させた。布団の中で親に隠れてひっそりとゲームを楽しむ日々。特に「パワポケ7」にどれだけの時間を費やしたことか。サクセスモードが楽しく楽しくて。

 

もしあの時ゲームにあまり熱中していなかったら視力は悪くならなかったのかもしれない。でもたぶん私はその代わりに別のものに没頭していただろう。遺伝や生活習慣すべてが重なって目が悪くなったのだと思う。そう思いたい。

 

ICL手術のおかげでクリアな視界を手に入れた今。もう一度あの「パワポケ7」のサクセスをプレイしたら、あの頃と同じ感動を味わえるだろうか?あるいは、大人になった今では別の視点で楽しめるのだろうか。

 

瞳の日にそんな昔の思い出をぼんやりと振り返る。視力が悪くなった理由を「パワポケ7」のせいにしつつも結局あの時間を後悔していない自分に気づく。ゲームの世界で過ごした時間もまた私の一部なのだ。

 

漏れ出す生活感と夜の静寂【25/1/2】

夜の静寂が好き。とりわけ、その静けさの中に紛れ込む環境音が好き。車のエンジン音や遠くで響くバイクの音、どこかの家から漏れ聞こえる笑い声やテレビの音。そういう日常の断片が静寂の中にぽつりぽつりと現れる感じがたまらなく好き。

 

自分は元来こういう「生活感」が好きなのかもしれない。他人の生活を覗き見るというほどではない。ただ、漏れ出す程度の日常感が心地いい。それを感じる度自分もまた誰かの生活の中で息をしているんだと思えるような気がする。

 

でも、そんな感覚がどんどん薄れてきている。例えば、夜中のファミレス。かつてはいつでも人が行き交い深夜の生活感が漂う場所だったけれど、今ではほとんどの店が深夜営業をやめてしまった。その理由は時代の流れだろう。効率化や働き方改革、安全のためといった理由が挙げられるけれど、深夜に感じられた「他人の生活感」は確実に遠くなっている。

 

夜の住宅街を歩くことも、今では怪しい行動に見られかねない。他人の日常の断片を感じるために静寂の中を歩くだけなのに、それすらも時代の流れに背く行為のように思えてくる。他人の生活感を愛でることが、いつの間にか社会から切り離される感覚を覚えさせるようになった。

 

私たちは効率化や安全を優先する一方で、こうしたささやかなつながりをどこかに置き忘れているのかもしれない。他人の生活感に触れることで、自分もその延長線上にいると感じられる。そんな些細な喜びが、少しずつ失われている。

 

夜の静寂の中に聞こえてくる音――それが完全に消え去る日が来ないことを願いながら、今日もまた静かな夜に耳を澄ませる。

 

橋の上で川を見る【25/1/1】

散歩コースにある橋。川にかかるその橋の真ん中で私はいつも立ち止まる。そしてただ水面を見つめる。それだけのこと。

 

小さな漣が立ち流れる落ち葉がゆっくりと運ばれていく。その様子をぼんやりと目で追う。何かを考えているわけでもないし何か感じようとしているわけでもない。そこに意味なんてないし深く考える必要もない。ただ水の流れが目の前にあるだけだ。

 

他の人も時々橋の上で足を止めて川を見つめていることがある。彼らが何を思っているのかは知らないし考えようとも思わない。きっとそれぞれに事情や思いがあるのだろう。でもそんなことを考察するのは野暮だし、多分、誰もそこまで考えてはいない。

 

橋の上から見る川の流れは、ただそこにあるだけで特別な意味を持たない。小さな漣が立ち、落ち葉が漂い、遠くに消えていく。それを見つめる自分も、川と同じように流れる時間の一部にいる。

 

いや、そんなことを考え始めるのもまた野暮かもしれない。ただの川。ただの橋。ただの散歩。結局、それ以上でもそれ以下でもない。ただ流れる漣とそれを見つめる時間がそこにあるだけ。

 

古傷【24/12/31】

猫に噛まれた。だいぶ前のことだと思っていたけど、実際は1か月ほど前の話だった。その傷がまだ治らないのは明らかに年齢のせいだろう。若いころなら数日で治っていたはずが今では治る気配がのんびりとしか訪れない。身体が確実に古くなっているのを感じる。

 

それでも自分の感覚は妙に若いままだ。時間の流れが速すぎて1か月前の出来事が「昨日のこと」のように感じられる。ここで思い出すのが「ジャネーの法則」。心理学によれば年齢を重ねるほど時間が速く感じられるのは時間の感覚が年齢に反比例するからだという。10歳にとっての1年は人生の10分の1、50歳にとっては50分の1。だから年齢を重ねるほど1年があっという間に感じるのだそうだ。

 

時間がどんどん速く過ぎていく一方で、傷の治りだけが遅いと感じるのは何とも皮肉だ。感覚的には若いままのつもりでも、身体は確実に年齢を刻んでいる。

 

このズレこそが身体と心のギャップなのだろう。感覚だけが若いころのまま取り残されている。そのギャップに戸惑いつつも少し笑えてしまう自分がいる。

 

時間の流れを速く感じるのも身体が回復に時間をかけるのもどちらも自然なことだと思うようにしている。傷は少しずつ治り、感覚も少しずつ今の自分に追いついていく。年を取るとは、こうやって自分を受け入れる過程なのかもしれない。

 

そうして今年もあっという間に終わろうとしている。もう一年が過ぎ去った。けれど、日々の中で気づいた小さな変化や自分を取り巻く時間の速さを面白がれる余裕を持てたのは大きな収穫だった。

そう思ってこの日記を締めくくりたい。

 

向かう先は、それぞれ【24/12/30】

「先進国」や「発展途上国」という言葉。国をラベルで分けるこの表現にはどこか違和感を覚える。「先進」には優越感が漂い「発展途上」にはどこか劣っているような響きがある。それぞれの国が持つ特性や課題を尊重する姿勢とはほど遠いように思える。

 

日本は「先進国」と呼ばれるがその肩書きに安心していていいのだろうか。少子高齢化、経済の停滞、社会の分断――抱える課題は山積みでもはや「先進的」とは言いがたい部分も多い。それでも他国と比較してどちらが進んでいるか、遅れているかといった発想に囚われることなく、自分たちが向かうべき未来を真剣に考えるべき時期に来ている。

 

そもそも、国ごとに進むべき道は異なる。経済規模や技術力を基準に優劣をつけることには無理がある。地球規模の課題たとえば気候変動やパンデミックのような問題は、どの国も連携しなければ解決できない。ラベル付けで序列をつけるよりも互いの違いを認め合いながら協力する方が未来への一歩になるのではないだろうか。

 

日本が目指すべきなのは他国との優劣を競うことではなくどんな状況でも自分たちの課題と正面から向き合い解決していくことだ。ラベルや肩書きに依存するのではなく、現実を見据えた努力が必要だ。そしてその過程で他国と手を取り合い共に歩む姿勢を示すことがこれからの日本に求められている「先進性」なのではないか。

 

「先進国」や「発展途上国」といったラベルに頼る時代は終わりつつある。未来を見据えそれぞれが違う道を進んでいるという視点を持つこと。その違いを認め合い、協力していくことこそがこれからの時代にふさわしい考え方だ。

 

結局のところ過去に使われていた「後進国」という言葉こそが間違いだったのだ。どの国も後ろに進むことなどない。ただ、その道を進む速さや形が違うだけだ。そして本当に「後ろ向き」なのは、そんな国をラベルで分類し続ける私たちの方なのかもしれない。