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見て見ぬふり【25/7/17】

今日新幹線に乗った。


車内で外国人の子供がまあまあ元気にそしてかなり大きな声で騒いでいた。その親は特に気にする様子もない。
そして周りの乗客はみんな見て見ぬふり。もちろん自分もその見て見ぬふりをする大人の一人だった。なぜか?一言で言って、怖いからだ。単純にそれに尽きる。

 

断っておくけど別にこれは外国人だからという話じゃない。
これが日本人の親子だったとしてもたぶん状況は全く同じだったと思う。騒ぐガキとそれを放置する親。そして遠巻きにうんざりした顔をしながらも決して何も言わない、その他の乗客たち。

 

じゃあなんで誰も注意しないのか?
それは注意したところでその親が素直に静かにさせますと言うとは到底思えないからだ。


むしろうちの子に何か文句でもあるのか!子供なんだから仕方ないだろ!なんて逆ギレされる可能性の方がよっぽど高い。実際問題そういう些細なことから口論になり傷害事件にまで発展するなんて話今の世の中じゃ普通にニュースで流れてくる。

 

まさに触らぬ神に祟りなし。


この言葉ほど今の日本の公共空間の空気を的確に表しているものはないのかもしれない。

 

ただ自分の席を蹴られるとか荷物に何かされるとか明確に自分自身に侵害があったら、その時は話は別なんだろうけど。そうなるまではみんな見て見ぬふり。

 

まあ今日の出来事といえば本当にそれくらい。


あとは特に何もなかったような気がする。
あるいは他に何かあったとしてもこの一件のせいでもう覚えていないだけかもしれない。

リチウム電池【25/7/16】

心臓のペースメーカーって一体どういう仕組みで何の力で動いてるんだろう?と。

 

で早速調べてみた。答えはリチウム電池らしい。なるほどだから何年かで電池交換のために手術が必要になるわけか。


そして「リチウム電池」と聞くと最近よくニュースで見るスマホやモバイルバッテリーの発火事故が頭をよぎる。じゃあペースメーカーを体に入れたまま亡くなった場合、火葬はどうするんだろう?という次の疑問が自然と湧いてきた。

 

調べてみると案の定火葬時には事前に体から取り外さないといけないらしいとある。


まあそりゃそうだよな。火葬場の炉の中であのリチウム電池が爆発でもしたら大惨事だ。
ただどうやらこれが法律で定められた義務というわけではなくあくまで推奨の範囲らしい。だからたまにそのまま火葬されてしまって炉内で大きな音がするなんていう問題も実際に起きているっぽい。

 

自分の人生のエンディングで最後にド派手な花火を打ち上げたいという気持ちはまあ分からなくもない。
でもその花火で他人様や公共の施設にまで迷惑をかけるのは絶対に違う。

 

ペースメーカーの電源がリチウム電池であることそしてそれが故に火葬時に問題が起きうること。
うんまた一つどうでもいいようででも知っておくべき知識を蓄えてしまった。


今日の勉強これにて終わり。

挿絵のおかげ【25/7/15】

半期の目標に本を読むなんてことを掲げたりしたけど思い返してみれば子供の頃から、別に活字が好きでたまらないっていうタイプの人間ではなかった。

 

そんな自分が小説というものをコンスタントに読むようになったその直接のきっかけ。 それは間違いなく「ライトノベル」というジャンルの存在。

そしてその中でも特に衝撃を受けたのがあの『涼宮ハルヒの憂鬱』だった。

 

ライトノベルだって別にそこらへんの本屋に並んでいる普通の文芸小説と本質的には何ら変わりはない。文章があって物語があって登場人物がいる。 じゃあなんで普通の小説じゃなくてハルヒから入ることができたのか。

 

理由は本当にたった一つ。

 

挿絵があるから

 

これに尽きる。 物語の途中で数ページに一回あるいは数十ページに一回登場人物の姿やその物語における印象的なシーンが一枚の美しいイラストとして描かれている。 この挿絵があるだけで文章だけでは想像しきれなかったキャラクターの表情や服装その世界の風景が一気に頭の中で鮮明になる。文章を読むのが少し疲れた時にちょうどいい休憩地点にもなってくれる。 そして何より次の挿絵が出てくるページまで頑張って読もうという具体的な目標設定ができる。この次の挿絵までという短いスパンの繰り返しが結果的に分厚い一冊を最後まで読み通すための強力なモチベーションになっていた。

 

しかも『涼宮ハルヒの憂鬱』はその物語自体が抜群に面白かったから、なおさら良かった。挿絵にたどり着くまでの文章を読む時間も全く苦にならない。むしろ次の挿絵と、次の展開が楽しみでページをめくる手が止まらなくなる。 この面白い物語と魅力的な挿絵という二つの強力なエンジンがあったからこそ活字への苦手意識を乗り越えられたんだと思う。

 

自分の読書体験は間違いなくハルヒのいとうのいぢさんの描く挿絵たちから始まったんだよな。

 

失ったわけじゃない【25/7/14】

子供のころ国語の教科書に載っている俳句を読んで本気でこう思っていた。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」ねぇ…。五七五たったの17文字。こんなの誰でも詠めるだろと。
季節の移ろいや目の前の情景をただ言葉にするだけじゃないか、と。本気でそう見下していたのかもしれない。

 

だが大人になった今、同じように何かを感じそれを17文字で切り取れと言われてもまず無理。出てくるのはどこかで聞いたような陳腐な言葉ばかり。あの頃あれほど簡単だと思っていた世界のなんと遠いことか。

 

そこでふと疑問に思う。

あの頃の生意気な自分にもあったはずの瑞々しい感性は一体どこへ消えてしまったんだろう。
大人になる過程で単純に失ってしまったのか。
それとももっと残酷な話でそもそも初めから自分にはそんなものはなかったのか。

 

…いや、前者だと思いたい。きっとそうだ。

そして、それは失ったというより生きていく上で他の能力を伸ばすために、自ら間引いた感受性なんだと考えることにしている。


たくさんの苗を植えてもその全てを大きく育てることはできない。いくつかを選んで残りを間引くことで選ばれた苗はより力強く立派に育つ。それと同じで、社会で生きていくための論理性とか協調性とかそういうものを育てるために、あまりに純粋で繊細すぎる感性は一時的に間引かれる必要があったんだ。そう、思いたい。

 

さらにこうも信じたい。
その間引かれた感受性は決して無駄に消えてしまったわけじゃない、と。
それは自分の心の土の中で静かに時間をかけて栄養となり豊かな肥料となっているんだ。


そうしていつか何十年後かになるかもしれないけどその豊かな土壌からまた新しい、若い頃とは違うもっと深みのある何かが芽生えて自分の中にちゃんと還ってくる。

 

失ったわけじゃない。それはいつか来るべき時のための肥料になっているだけ。

 

ささむけ【25/7/13】

人差し指の逆剥けが地味に執拗に痛い。
気休めにと思って絆創膏を貼ってみたけど正直効果があるというよりむしろ邪魔なだけ。

 

こういう体の末端に分かりやすい不調が現れる時って体全体が良くない状態。自分でも分かる。健康状態のバロメーターみたいなもん。

タンパク質は意識して多めに摂っているつもりだけどたぶん見えない体の中では何か良くないことが起こっているんだろう。

 

その証拠に朝起きた時やけに口の中がカラカラに乾燥していたりする。夜中ちゃんと深く眠れていないせいか?そういえば体の節々も意識したらあ、やっぱり痛いかもと感じるくらいのごく微かな痛みをずっと発している気がする。


とどめにこのジェットコースターみたいな寒暖差だ。これでやられない方がおかしい。

 

もうこうなったら自分にできることは一つしかない。
無理やりにでも寝る。とにかく睡眠時間を確保して体の回復力に全てを賭けるしかない。

 

というわけで今夜の最終兵器として冷蔵庫で出番を待つヤクルト1000を胃にぶち込むことにする。これで少しでも深く質の良い眠りが得られるなら。


まああれを飲むとなぜか妙にリアルで変な悪夢を見ちゃったりもするんだけどな。
もう背に腹はかえられん。

 

固い決意 とは?【25/7/12】

家計簿を眺めていたら事実に気づいてしまった。
今月に入ってから一日たりともお金を使わなかった日がないと。毎日必ず何かしらの支出がある。

 

これはまずい。
というわけで今日の土曜日は断固としてお金を使わない日にすると朝固く心に誓った。


食べ物は冷蔵庫に入っているもので十分。特に外出なんてする必要もない。暇つぶしなら契約しているサブスクの映画もアニメも、いくらでも観るものがある。完璧な計画のはずだった。

 

そんな鋼のように強固な決意を固めたはずなのに。

 

気づいたらいつの間にか、スマホの画面をタップして映画のチケットを買っていた。


なんでだ。どういう思考のプロセスを経てそうなったのか、自分でもよく分からない。ただ予約完了のメールが届いている。これが現実。

 

金額は1300円なり。


まあレイトショーだから通常料金よりは少しだけ安い。不幸中の幸いか致命傷くらいで済んだと前向きに捉えることにしよう。今日のお金を使わないという目標は開始から半日で無残に砕け散ったわけ。

 

一応家を出る前にご飯をしっかり食べてお腹はいっぱいにしていくつもり。
だから映画館という伏魔殿に潜む最大の敵ポップコーンとかドリンクとかそういう魅力的な追加の散財はしないと思う。
うん、たぶん。あまり自信はないけど。

 

固い決意なんてその程度のもの。
自分の意志の弱さに乾いた笑いしか出てこない。

食文化と矯正【25/7/11】

昔の学校給食のことを思い出した。


自分の育った地域では冬になるとおでんと白米がセットで給食に出てくることがあった。今でこそいやいやおでんをおかずに白米は合わないだろなんて言うグルメな人もいるけど当時はそんなこと誰も気にしていなかった気がする。

 

問題はその組み合わせじゃない。その食べ方。
ある日いつものようにおでんの汁ごとアツアツの白米の上にかけていわゆるおでんぶっかけご飯にして、はふはふと食べていたらそれが一部のクラスメイトの目に留まり、問題視されなんと学級会議が開かれることになった。

 

議題はおでんをご飯にかけて食べるのは是か非か。
僕のその食べ方が「見栄えが悪い」「食べ方が汚い」という極めて主観的で曖昧な理由でクラスの裁判にかけられ糾弾された。

 

そして無情にも多数決の結果「当クラスにおいて白米におでんをかけて食べる行為はこれを禁ずる」という謎のローカルルールが爆誕。


バカげてる。こんな理屈がまかり通るならカレーライスをグチャグチャに混ぜて食べるのだってそのうち汚いから禁止にされかねない。さらに行き着く先は個人の自由な食文化そのものの否定じゃないか!と子供心に憤慨した。

 

で、ここから。
大人になった今ふと考えてみる。自分は家でおでんと白米を一緒に食べる時、果たしてぶっかけにしているだろうかと。
答えはノー。無意識のうちに、おでんの皿とご飯の茶碗をきっちり分けて行儀よく食べている。


あの日の学級会議で下された多数決という名の同調圧力が何十年という時を経てすっかり体に染み付いてしまっている。

 

これはもう一種の「矯正」であり見事な「洗脳」だ。
たかが給食の食べ方一つ。でもそれは今も自分の食生活に静かな呪いのように確かにこびりついている。