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それだけで少し憂鬱【25/11/25】

一日中鼻水に悩まされていた。熱があるわけでもないし喉が痛いわけでもない。だから風邪ではないと思う。たぶん。

ただ花粉症みたいに水っぽい鼻水が止まらない。油断して下を向いたりちょっと気を抜いたりすると勝手にツツーっと垂れてくる。これがもう地味だけど精神的にかなり削られる。ティッシュが手放せないし何より集中力が削がれる。この時期特有のブタクサか何かのアレルギーなのかそれとも急激な気温の変化に鼻の粘膜がついていけてないだけなのか。どちらにせよ不快極まりない。

 

そういや今日は久しぶりに天気も悪かった。朝からどんよりと曇っていて雨も降っていた。ここ最近ずっと晴れの日が続いていたから雨を見るのはなんだか久しぶりな気がした。最初は「お、たまには雨も風情があっていいか」なんて思ったけれど数時間もしないうちに前言撤回。やっぱり晴れている方がいい。空が暗いと気分まで引っ張られて暗くなるし何より雨の日は底冷えがする。

 

そう寒いんだよ。自分は寒いのが苦手。いやはっきり言おう。冬が苦手。もちろん11月も終わりなんだからこの気温が「標準」だというのは分かっている。これが当たり前で今までが暖かすぎただけなんだろう。でも頭で分かっていても体は拒否反応を示す。

 

寒いと物理的に体が縮こまって動かなくなるのはもちろんだけどそれ以上に脳みその処理速度が落ちて、心、つまりやる気とかモチベーションみたいなものまで凍りついて動かなくなる気がする。「寒いから布団から出たくない」に始まって「寒いから外に出たくない」「寒いから何も考えたくない」と全ての行動原理が「寒さからの逃避」に支配されてしまう感じ。これが冬の嫌なところ。

 

鼻水をすすりながら冷たい雨音を聞いて動かない頭でそんなことを考える。ああこれから本格的な冬が来るのかと思うとそれだけで少し憂鬱。早くも春が待ち遠しい。

 

朝食と食欲【25/11/24】

三連休の最終日。そのフィナーレを飾るにふさわしい暴挙。チョコパイを一気に6個も食べた。口の中に広がる甘さと脂質そして背徳感。うん満足。これぞ休日という感じがする。

 

そんな甘い締めくくりを迎えた今日だが一日の始まりもまたなかなかエキセントリックだった。 朝の6時。世の中がまだ寝静まっているような時間になぜか「はま寿司」にいた。店に行って初めて知ったんだけど、店舗によっては朝の5時から営業しているらしい。24時間営業の牛丼屋ならともかく回転寿司が早朝5時オープンって、体どういう需要なんだ? 「よし朝5時だ!新鮮な生魚を腹いっぱい食うぞ!」なんていうテンションの人間が、の世にそんなに存在するとは思えない。

 

案の定というか、 結局タッチパネルで注文したのは、温かいラーメンといなり。 寿司屋に来ておいて寿司を食わない。なら最初からラーメン屋かコンビニで良かったんじゃないかというツッコミはこの際なしにして。その時の自分にはそれが正解だった。

 

そこでふと不思議に思ったことがある。これがもし徹夜明けの「深夜2時」とか「3時」だったらたぶん喜んで寿司をバクバク食べていたと思うんだ。ラーメンだってもっと脂っこいこってりしたやつを求めていたかもしれない。深夜のテンションなら胃袋は無限の可能性を見せてくれる。

でもそこからたった数時間経過して空が白んで「朝」になった途端人間の食欲は急激に保守的。「朝からそんな重いものはちょっと…」なんて急に健康ぶったことを言い出す。 深夜と早朝。物理的な時間は数時間しか違わないのに太陽が出ているかいないかあるいは「これから寝るのか起きるのか」という気分の違いだけで受け入れられる食べ物がこうも変わるものなのか。

 

たった数時間の差が生む食欲の断絶。人間の体と脳って本当に不思議。そんなことを、朝6時の静かな店内でラーメンをすすりながら考えた。

 

そして夜にはチョコパイを6個食べているんだから結局のところ食欲なんて時間帯関係なくバグっているだけ。 

 

 

もう取り戻せない過去への感傷【25/11/23】

ふと、思うことがある。自分のやりたいことを人の目も気にせず真っ直ぐにできるような人間になりたかったな、と。正確にはそういう風に生きたかったなというもう取り戻せない過去への感傷。

 

もちろん理屈の上では「今からでも遅くない」と言うことはできる。人生100年時代だ、何歳からでも挑戦できるなんて言葉は巷に溢れている。でも現実にはもう守るべき家族もいるし積み上げてきた生活もある。「今更遅い」という側面も否定できない事実としてそこにある。

 

なぜ自分はそうなれなかったのか。別に過去に犯罪を犯したとか物理的に不可能な環境だったとかそういう大きな理由じゃない。ただ自分のやりたかったことを恥ずかしかったり笑われたくなかったりして無意識のうちに「自己矯正」してしまった結果なんだと思う。

 

この「自己矯正」のきっかけになるのが本当に些細な周囲の「茶化し」だ。

 

例えば子供の頃ちょっと勇気を出してオシャレをしてみた時。あるいは思春期に鏡を見ながら一生懸命眉毛を整えてみた時。それを見た親戚のおじさんやおばさんがニヤニヤしながらこう言うんだ。「あら、○○ちゃんませちゃって(笑)」 「なんか眉毛細くなってない? 色気づいちゃってまぁ(笑)」

 

言った本人たちに悪気なんて1ミリもない。その場を盛り上げるためのちょっとしたコミュニケーションのつもりだろう。周りの大人たちもそれに合わせてドッと笑う。でも言われた当人にとってはその笑い声は決して温かいものじゃない。「あ、変わろうとすることは恥ずかしいことなんだ」「目立つことをすると笑われるんだ」 という強烈なブレーキとして心に刻まれる。

 

その瞬間、破りかけていた殻はまた硬く閉じてしまう。「普通にしてよう」「目立たないようにしよう」という安全だけど退屈な道へと自分で自分を矯正してしまう。

 

人を茶化すというのはその場は面白おかしくなるかもしれないけれど、実はその人の「人生を変えてしまう」くらいの破壊力を持っている。あの一言がなければもしかしたらその子はファッションデザイナーになっていたかもしれないし人前に立つ表現者になっていたかもしれない。大げさかもしれないけれど「可能性の芽」を摘むというのは、そういうこと。

 

もう自分の過去は変えられない。あの時笑われることを恐れずに突き進んでいたら今頃どんな景色を見ていたんだろうと想像することはあるけれどそれはもう叶わない。

 

だからせめて自分は絶対に誰かの挑戦や変化を茶化したりしないと決めている。もし自分の子供や周りの誰かが不格好でも何か新しいことを始めたり殻を破ろうとしていたりしたら。「似合ってるじゃん」「いいじゃん」と真顔で言ってあげたい。

 

「ませちゃって(笑)」なんていう冷ややかな笑いで誰かの未来を殺さない。

 

スラローム【25/11/22】

昨日、金曜日の夜の話。映画館で『果てしなきスカーレット』という作品を観てきた。 観終わった直後の感想そして一夜明けた今の感想を求められたとしても今の自分に言えることはただ一つだ。

「まあ、この作品の評価は後世の歴史家たちに任せようと思う」。

それ以上自分からは特に何も言いません。良かったとも悪かったとも面白かったともつまらなかったとも言わない。ただ沈黙。まあ、察してくださいということ。世の中には言葉にしないことが最大の批評になる場合もある。

 

そんななんとも言えない消化不良感を抱えたままの帰り道だった。車を運転していると後ろに一台のバイクがついた。こいつが大変気持ち悪かった。別に車間距離を詰めて煽ってくるわけでもない。信号待ちで強引にすり抜けて前に出てくるわけでもない。スピード違反をしているわけでもない。ただひたすら自分の車線の中でゆらゆらと右に左にスラロームを繰り返している。

 

バックミラーを見るたびに後ろのバイクのヘッドライトが右へ、左へと規則的にそして延々と動き続けている。これがもう視覚的に猛烈に不快でシンプルに気持ち悪い。三半規管がおかしくなりそうなあの独特の揺らぎ。

 

たぶんライダー本人はタイヤを温めているつもりなのか単に退屈で遊んでいるのかあるいは自分の運転技術に酔いしれているのか知らないが前を走っている車からすればたまったもんじゃない。暗闇の中でチカチカと左右に動く眩しい光はこちらの注意を不必要に惹きつけるし、何よりその挙動不審さは広義の意味での「煽り運転」と取られても仕方ないレベル。「俺はここにいるぞ邪魔だ」と無言の圧力をかけられているようにも感じる。

 

百歩譲って悪意がなかったとしてもだ。公道はお前のライディングテクニックを披露するサーキットじゃないしタイヤを温める必要のあるレース場でもない。ただただ前のドライバーに不必要なストレスと生理的な不快感を与えるだけのその行為本当にやめたほうがいいと思う。

 

趣味:皮算用【25/11/21】

最近暇さえあれば育児休業の制度とかその周辺のお金のことについて調べている。おかげで無駄に知識がついてきていろんなパターンのシミュレーションをするのが日課になりつつある。趣味:皮算用、といったところか。

 

で、そういう情報を追っていると必ず目に入ってくるのが「年少扶養控除を復活させろ!」という最近やたらと大きい主張だ。これに対して冷静に計算してみた自分としての結論は「それを復活させるより今の児童手当を増額してもらった方が多くの人にとっては手取りが増えますよ」って話なんだよね。

 

なんかみんな「扶養控除」という言葉の響きに過剰な夢を見すぎている気がする。控除っていうのはあくまで「課税される所得を減らす」ものであって税金そのものが丸々減るわけじゃない。高所得者なら恩恵は大きいかもしれないけど一般的な所得層なら現金を直接給付してくれる児童手当の方がよっぽどシンプルで効果的。

 

そもそも今の日本の子育て支援、実は捨てたもんじゃない。3歳児クラスから小学校に上がる前までは保育料が無償化されているし高校3年生まで実質無料になる制度だってある。医療費だって多くの自治体で無料か格安だ。ここまで支援されているのにさらに「控除もよこせ」「もっと金をくれ」って言うのは失礼を承知で言わせてもらうなら、ちょっと要求が「がめつく」なってきているんじゃないか、と感じてしまう。

 

大前提として子供を産み育てるということは物理的に家族が一人増えるということだ。 食費もかかる、服もいる、部屋も狭くなる。当然、生活のコストは上がるし経済的にはきつくなる。それはもう物理法則みたいなもので仕方のないこと。それを「子供が増えたら逆に独身時代より生活が楽になりました!」なんて状態にしろというのはよくよく考えたらあまりにも図々しい願いじゃないか。

 

もちろん自分だって本音ではそうなってほしいと思っているよ。子供を産めば産むほど儲かるシステムならそりゃあ万々歳だ。でもさすがにそれは無理筋だっていうことは、理性を働かせれば分かる。国のお金は無限じゃない。こっちを立てればあっちが立たず。過度な要求を通せばその皺寄せは巡り巡って将来の子供たちへの増税だったり社会サービスの低下だったりという形で必ず自分たちに返ってくる。そのことを、忘れてはいけない。

 

もし国が本気で「異次元の対策」をするというならせいぜいできるのは「子供が4人以上いる世帯は所得税を免除します」くらいの分かりやすくてインパクトのある減税措置じゃないかな。 それなら稼げば稼ぐほど手取りが増えるから親の働く意欲も上がるし、富裕層も子供を産もうという気になるかもしれない。

 

「くれくれ」と叫ぶ前に一度冷静に電卓を叩いてみる。そんな習慣が今の日本には必要なのかもしれない。

 

クレカの件について【25/11/20】

クレジットカードの家族カードを作ろう。そう思い立ったのは確か数週間前のことだ。家計の管理を一本化してポイントも無駄なく貯める。合理的で素晴らしい計画だと思った。しかし現実はどうだ。まだ何一つ手を付けていない。申し込みページすら開いていない。

 

なぜか。理由は明白で今使っているカードが「楽天銀行カード」だからだ。これ作った時はキャッシュカードと一体型で便利だと思っていたんだけど実は家族カードを作る上では最大のトラップだった。どうやらこのカードそのままでは家族カードの発行ができないらしい。やるなら一度このカードを解約して銀行機能とクレジット機能を分離させ新たに普通の楽天カードを契約し直してそこからようやく家族カードを申し込むという手順を踏まなければならない。

 

そこまですることか?と冷静に思ってしまう。あまりにも工程が多すぎる。まるでお使いクエスト。あっちに行ってあれをしてこっちに戻ってこれをして。考えるだけで脳が拒否反応を起こしてシャットダウンしそうになる。

 

百歩譲って手続き自体は頑張るとしよう。でも本当に恐ろしいのはその後。今のクレジットカードには生活のありとあらゆる支払いが紐づいている。サブスクリプションの数々Amazonの支払い設定。カード番号が変わるということはこれら全てを一つ一つ手作業で登録し直さなければならないということ。想像しただけでめまいがするほど「だるい」。

 

さらに一番の懸念事項はNISAの積立設定だ。クレカ積立で毎月自動的に投資信託を買っているわけだがカードを切り替えるタイミングでこの設定がどうなるのか。うまく引き継げずに一回分の積立が飛んでしまうんじゃないか? たった一回かもしれないけど長期投資においてその「一回」の機会損失は精神的にかなり嫌。複利の効果がリズムが崩れる気がしてならない。

 

だったらいっそのこと楽天はそのままにして別のカード会社で新規にカードを作って、そこで家族カードを発行した方が楽なんじゃないかとも考えた。でもそうするとポイントが分散するし管理するアプリも増える。結局のところポイント還元率や使い勝手を考えれば「楽天でまとめるのが一番いいじゃん」という結論に戻ってくる。

 

楽天が一番いい。でも手続きは地獄。この無限ループを数週間繰り返した結果、出した結論はこれ。

 

「やらない」。

 

現状維持バイアスと言われようが構わない。その手間を乗り越えるだけのエネルギーもNISAの積立を一回スキップする勇気もない。面倒くささが合理性を上回った瞬間。 まあ、またいつかどうしても必要に迫られた時に考えればいいか。

 

悪夢は続くよ【25/11/19】

ふとニュースか何かを見ていて思った。

あの元首相を殺したテロリストと今の中国の不穏な動きを必死に擁護している連中。やってることのベクトルというか根底にある思考回路が全く一緒なんじゃないか、と。

自分の正義のためなら何をしてもいい現実は見ないというあの感じ。シンプルに怖い。

 

まあそんなきな臭い話はここまでにしておこう。

今日筋トレをしていて、ふと気づいたことがある。

最近筋肉そのものの疲れというより「神経」が疲れていると感じることが多くなった。

実際に動作中にピリッとした鋭い感覚が走ったりする。昔はどれだけ追い込んでもこんなことなかったのに。

これがいわゆる「神経系の疲労」というやつなんだろうか。それとも認めたくはないけど単なる老化なのかもしれない。体は正直。

 

そういえば今日もまた変な悪夢を見た。

水没しているビルの屋上で設置されているエレベーターを待っている夢だ。

水浸しの足元鉛色の空。やっと来たエレベーターは故障していて扉が開いた瞬間に底のない闇が見える。

いざ乗り込むという直前で目が覚めたから本当の恐怖の一歩手前で助かったわけだけど寝汗がすごかった。

 

ここ最近の夢は一体なんなんだ?

終わらないエレベーターだったり水没した屋上だったり。

自分では気づかないうちに精神的に何か追い込まれているんだろうか?

考えても分からないしこれといった対処法もないからただこの不穏な波が過ぎ去るのを待つしかないんだけど。

 

でもふと思った。

もしかしたらガッツリと肉を食えばこのモヤモヤも満足して消えてくれるかもしれない。

そうだきっとタンパク質と脂質が足りてないんだ。

原始的だけど案外そういうことなのかもしれない。

今度焼肉にでも行こう。そう決めたら少しだけ気分が楽になったかも。