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呪いの紙【26/1/3】

お正月の特番で『クイズ$ミリオネア』がやっていたらしい。その話を聞いて真っ先に頭に浮かんだのはあのお馴染みの演出。挑戦者がドロップアウトを選んだ時あるいは間違えた時に司会者が目の前で小切手をビリビリに破り捨てるあのシーン。

1000万円という富の象徴が一瞬にしてただの燃えるゴミに変わる絶望感を視覚的に訴える名演出だがふと冷静になって思う。

小切手ってもう廃止されるんじゃなかったっけ?と。

 

その通りで政府と銀行界の方針2026年度末を目処に紙の約束手形や小切手は全面的に電子化され事実上の廃止となる流れが決まっている。まさに今年がその過渡期のラストイヤー。もし番組でまだあの演出をやっていたとしたらそれはもう現代劇ではなく一種のファンタジーか時代劇を見ていることになる。実社会では使えない過去の遺物となった紙切れを勿体ぶって破いているわけだ。

もし完全に廃止された後もあの演出を続けるならフロッピーディスクのアイコンが保存の意味として残っているのと同じように小切手を知らない世代にとってはクイズ番組で破られるための専用の紙として認識される未来が来るかもしれない。それはそれで面白い。

 

しかしここからが少し怖い話。気になって詳しく調べてみるとさらに奇妙な事実に突き当たった。どうやら2026年度末で廃止されるのはあくまで銀行が手形や小切手の交換業務をやめるという実務上の話であって法律(小切手法)そのものが消滅するわけではないらしい。つまり法的にはまだ小切手という有価証券は有効に存在し続ける。

 

これ冷静に考えると完全に廃止されるよりも余計にタチが悪いんじゃないか? 法律上は現金の代わりに使える有効な証券として定義されているのにそれを銀行に持っていっても「うちはもう取り扱ってないんで」と門前払いを食らうことになる。

「有効だけど、換金できない」 そんな矛盾した存在もはやバグ。流通するインフラが死んでいるのに法律という魂だけが現世に残っている。まさにゾンビ小切手。

 

このねじれが悪用されるリスクは容易に想像できる。事情に詳しくない人を相手に法律上有効な小切手だからと言いくるめて支払いに使い受け取った側が銀行で換金できずに途方に暮れる……なんていうトラブルが起きかねない。

そう考えると、破り捨てるあの小切手は単なる小道具以上にこの国の行政と経済界のちぐはぐさを象徴する高度な風刺アイテムに見えてくる。

制度を変えるなら法律ごと綺麗さっぱり無くしてくれればいいのになぜか中途半端に枠だけ残す。この責任の所在が曖昧な感じがいかにも日本的でなんだか小切手が破られる音以上に寒々しいものを感じてしまった。

やはりあの演出は破り捨てて正解なのかもしれない。

 

鎖国【26/1/2】

新年早々あまり景気の良くない話だけれど日本のプロ野球の未来について考えるとどうしても暗い予感しかしない。きっかけはやはり大谷翔平だ。彼がドジャースに移籍してからMLBの試合をフルで観る機会が格段に増えた。そこで目の当たりにするのはパワー、スピード、技術、そしてエンターテインメントとしての規模感すべてにおいてNPBとは次元が違うという残酷な現実。最高峰の戦いを見た後に日本の試合を見るとどうしてもスローモーションに見えてしまう。 NPBはMLBの下部組織、あるいは育成リーグに成り下がった そんな極論を否定できない。

 

その構造を決定づけているのがポスティング制度だ。日本で手塩にかけて育てたスター選手を全盛期の一番いい時期に向こうの資金力からすればはした金のような譲渡金で吸い上げられる。向こうは完成品を安く買い叩きこちらはスターを失って空洞化する。これはもうスポーツ交流なんて綺麗な言葉じゃなくて合法的な「搾取」のシステムだ。ファンとしては選手の夢を応援したいけれどリーグ全体で見れば衰退へのアクセルを踏んでいることに他ならない。

 

そしてもう一つの絶望、国内の足並みの揃わなさ。特に広島。ユーザーの利便性を考えれば全12球団の試合が一つのプラットフォーム(例えばDAZNや今回WBCで参入したネトフリなど)で観られるのが当たり前。今の時代ネットで全試合観られないなんてインフラとして欠陥があると言っていい。しかし広島の球団だけが頑なに地元テレビ局や独自の権利に固執し包括的な配信契約に応じないケースが多い。地元密着と言えば聞こえはいいがそれはグローバル化デジタル化する現代において衰退する地方経済と心中するようなもの。世界中どこからでもアクセスできる環境を作らなければ新規ファンなんて増えるわけがない。1球団のエゴでリーグ全体のネット戦略が阻害されている現状はまさに鎖国だ。

 

DAZNが中継に参入したのは黒船が来たようなチャンスだったはず。世界的なプラットフォームに乗れば日本の野球もまだ生き残る道があったかもしれない。でも広島がいる限り12球団一括の放映権ビジネスは成立しない。この「11球団+1」の歪な構造が解消されない限りNPBは世界から取り残されガラパゴス化したまま沈んでいく運命なのだろう。

くそと吐き捨てたくなる気持ちも分かる。最高峰のMLBを知ってしまった僕たちはもう昔のように無邪気にNPBを楽しめない体になってしまったのかもしれない。

 

2026年【26/1/1】

気づいたら年が明けていた。

カウントダウンの瞬間にジャンプするわけでもなく除夜の鐘にしみじみと耳を傾けるわけでもなくただ寝て起きたら数字が「2025」から「2026」に変わっていただけ。 大人の年越しなんてそんなもん。

 

昨晩、暖房を切って寝たのが吉と出たのか凶と出たのか。乾燥で喉がやられることもなく途中で暑くて目が覚めることもなく泥のように深く眠れたのは事実。しかし朝方の部屋はもはや冷蔵庫を通り越して冷凍庫だった。目が覚めた時寒さを通り越して身体の芯から生命力が削ぎ落とされているような死の気配すら感じた。人間あまりに寒いと本能的な危機感を覚えるらしい。布団という薄い防壁一枚で冬将軍の猛攻を凌ぎ切った自分を褒めてやりたい。

 

さて初夢についてだが何も見ていない。これを縁起が悪いと嘆く必要はない。一般的に初夢は元日の夜から2日の朝にかけて見る夢を指すことが多いから昨晩の睡眠はノーカウント。つまりまだ初夢を見るチャンスが残されているということ。ガチャで言えばまだSSRを引く権利を温存している状態。今夜枕の下に昨日の映画ベスト24のリストでも敷いて寝ればもしかしたら名作映画のような極上の夢が見られるかもしれない。

 

そして一年の抱負。なんかある?と自問自答してみたけれどぱっと思いつかない。でもそれでいいんだと思う。無理やりひねり出した今年は資格を取るとか毎日走るなんていう立派な抱負は大抵三日坊主で終わるのがオチ。ぱっと思いつかないということは今の生活にそれなりに満足しているかあるいは現状維持で手一杯かどちらにせよ変える必要性を強く感じていないという証拠。その程度のことなのだ

 

だからあえて抱負を掲げるなら現状維持あるいは生き延びるで十分。駄作映画を見て体調を崩すこともなく、口から紐が出る悪夢も見ず、ただ平穏に、美味しい水切りヨーグルトを食べて過ごす。それ以上の贅沢な目標なんていらない。強いて言うなら昨日作った映画ファイルの25本目に相応しい作品に出会うことくらいか。そんな低いハードルを地面に置きそれをまたぐことすらせず横をのんびり歩いていく。

そんな2026年でいい気がする。

 

自分の性格【25/12/31】

大晦日の夜。世間が紅白だの格闘技だので浮かれている中黙々とパソコンに向かいスプレッドシートと格闘。今年観た映画いや、これまでの人生で観た数多の映画の中から本当に心に残っている「魂の一本」を選別する作業。悩み抜き断腸の思いで絞り込んで、最終的に残ったのは24作品。この24本こそが自分を構成している成分表。

 

次のステップはこのリストを具現化すること。先日思いついたアイデア通りこの厳選された24作品のフライヤーを入手し例のB5クリアファイルに丁寧に収めていく。デジタルの文字情報をアナログなモノとして手元に残す。そうやって完成したファイルを想像してふと気づいた。ある意味で究極の自己紹介じゃないか?と。好きな映画を挙げるという行為は単なる趣味の披露じゃない。自分の価値観笑いのツボ泣き所許せない悪そして人生哲学。そういった内面を全てさらけ出すのと同義。私はこういう物語に救われこういう人間に憧れこういう結末を愛していますという告白。選ばれたラインナップを改めて眺めると確かに自分の性格が色濃く反映されている気がする。ちょっと偏屈ででも王道も嫌いじゃなくて社会の影に惹かれつつ最後は希望を見たい。そんな面倒くさい自画像が24枚のポスタービジュアルを通して浮かび上がってくる。

 

来年この「私選・映画ベスト24」を一本の日記として公開してみようかななんてことも考えている。自分の脳内を解剖して見せるようで少しいやかなり恥ずかしいけれど記録として残しておく価値はあるはず。その時はフライヤーの画像と共に、なぜその映画が自分にとって特別なのかを語ってみよう。

 

それにしても2025年ももう終わりか。早いなんて言葉じゃ足りないくらいあっという間だった。当たり外れの激しい映画たち理不尽な道路事情パンダへの冷めた視線そして数々の怒りと少しの感動。いろいろあったけれどこうして自分を形成する映画たちのことを考えながら年を越せるならまあ悪くない一年だったのかもしれない。除夜の鐘が終わる前にスプレッドシートを保存して新しい年を迎える準備をしよう。

さよなら、2025年。

来年もまたこのB5ファイルに追加したくなるような25本目の傑作に出会えますように。

 

サーチ・アンド・デストロイ【25/12/30】

年の瀬も押し迫った夕方ふと立ち寄ったコンビニでこの世の終わりみたいな光景を見た。

そこはパチンコ店の隣に位置する店舗だったのだが一言で言えば「治安が終わって」いた。店の前には紫煙を燻らせる男たちがたむろしている。そもそもそのコンビニには喫煙所がない。以前はあったがマナーの悪さやトラブルか何かで撤去されたのだろう。

しかし灰皿がなくなったことで彼らの倫理観のリミッターも一緒に外れてしまったらしい。「灰皿がないならどこで吸ってもいいんだろう?」と言わんばかりに敷地内の至る所でタバコを吸い吸い殻を地面に捨てている。灰皿という「結界」が消えたせいで逆に敷地全体が巨大な喫煙所と化している皮肉。そこにあるのはルールもマナーも存在しないただの無法地帯だった。

 

偏見と言われるかもしれないが言わせてもらう。パチンコに興じかつ路上喫煙を平気でする層の「民度」は限りなくゼロに近い。彼らの辞書には「他者への配慮」という言葉が載っていないのだろう。副流煙を撒き散らしコンビニを利用する一般客に不快感を与えているという自覚が1ミリもない。そんな光景を見せつけられる、頭の中に過激な思想が湧き上がってくるのを止められない。「法律で禁止にしてくれないかな」 いや生ぬるい。「見つけ次第銃殺」とか「殺処分」でもいいんじゃないか、と。

 

人権派の方々は「彼らも納税者だ」と擁護するかもしれない。だが冷静に計算してみてほしい。彼らが払っているのはたかが知れているタバコ税とパチンコで溶かす金に含まれる税金くらいだ。それに対して彼らが将来的に引き起こすであろう肺がんや生活習慣病にかかる医療費そして彼らが生み出す社会的損失や清掃コストを天秤にかければどう考えたってマイナス。長期的な視点で見れば彼らを排除することで医療費は削減され、国の財政は健全化する。 まさに「サーチ・アンド・デストロイ」こそが最も合理的な解決策なんじゃないか。

 

そんなディストピアな妄想をしてしまうほど目の前の現実は酷かった。真面目にルールを守って生きている人間が煙たがられ避けながら歩かなきゃいけない理不尽。年の終わりに見るにはあまりにも汚くて救いのない景色。

 

許しについて【25/12/29】

年末の休みに入りゲームのコントローラーを握った。

プレイし始めたのは『Silent Hill f』。1960年代の日本を舞台にした和風ホラーの新作。 このシリーズ特有の精神を削ってくるような恐怖は健在だけどどこか耽美的でホラーゲームの中では「優しい方」という評判も分からなくはない。ただ生理的な嫌悪感と美しさが紙一重で同居しているあの世界観はやっぱり怖い。まだ序盤も序盤。じっくりと探索しているととても年内にクリアできる気がしない。除夜の鐘を聞きながらクリーチャーに追われる年末年始になりそう。

 

そういえば昨日は気分転換に映画を観た。フランス映画の『サムシング・エクストラ! やさしい泥棒のゆかいな逃避行』という作品。

強盗犯が警察から逃れるために知的障害を持つ人々のサマーキャンプに紛れ込むというあらすじ。これが思いのほか面白かった。 最初は「障害者を笑いものにするんじゃないか?」と身構えていたけれどすぐにそれが間違いだと気づいた。彼らのありのままの姿や言動をユーモアとしてフラットに描いている。「ああこういう場面で笑ってもいいんだ」というある種の許しというか新しい学びがあった気がする。腫れ物に触るような扱いではなく同じ人間として「おかしなことはおかしい」と笑い合う関係性。それがとても心地よかった。

 

ストーリー構成としてはハリウッド映画のような派手な「起承転結」ではなく「起承承結」といった感じで大きなドンデン返しがあるわけじゃない。淡々とでも温かく日常が積み重なっていく。でもそれが悪くない。

ただこの映画が今の日本で広く受け入れられるかというと正直難しいかもしれない。 それは日本社会が未熟だとかそういう単純な話ではなくてもっと根深い「文化」や「空気感」の違いだと思う。日本ではどうしても障害というテーマを扱うと「感動」や「重い社会派」に寄せがちでこういうカラッとした笑いに昇華させる土壌がまだ少ない気がする。知らんけどと付け加えておくけれどそんなことをふと考えさせられた。

 

「同調圧力」という病【25/12/28】

年の瀬の関越自動車道であまりにも痛ましい事故が起きた。車数十台を巻き込む多重衝突。現場の映像を見ると鉄屑のようになった車の列が雪の中に延々と続いている。死傷者も出ているという。事故当時、現場は雪が降っていて最高速度は50キロに制限されていたらしい。

しかしこのニュースを聞いた時多くのドライバーが胸に手を当てて思ったはずだ。 「50キロ制限の高速道路で本当に50キロで走っている車がどれだけいるだろうか?」と。

正直に言えばは守れていない。いや「守らせてもらえない」空気があると言ったほうが正しいかもしれない。高速道路の工事規制なんかでもそうだ。看板には「50キロ規制」と出ているけれど実態はどうだ。みんな平気で80キロ下手すればそれ以上のスピードで駆け抜けていく。 そこで正直に50キロに落とせばどうなるか。 後ろから猛スピードで迫ってくるトラックにパッシングされ煽られまるで「邪魔だ、どけ」と言わんばかりの威圧を受ける。暫定2車線の対面通行区間も同じだ。60キロ制限の道を法定速度で走ろうものなら後ろには長蛇の列ができバックミラー越しに後続車のイライラが伝わってくる。

 

「流れに乗る」ことが正義で「制限速度を守る」ことが悪とされるあの歪んだ空間。下手に速度を落とすと追突されるんじゃないか煽られるんじゃないかという恐怖心が僕たちのアクセルを緩めさせない。

「周りも出しているから」という赤信号をみんなで渡る心理と「自分だけ遅いと危ない」という防衛本能が混ざり合って雪道ですらスピードを落とせない状況を作り出している。これはもう個人のモラルの問題を超えた道路上に蔓延する「同調圧力」という病。

 

けれど今回の関越道の惨状はそんな甘えた考えを粉々に打ち砕く。 数十台が絡まり合いひしゃげた車内で助けを求める人々の姿を想像したら「煽られるのが怖い」なんて言い訳は通用しない。 どんなに後ろから詰められようがパッシングされようがスリップして制御不能になり命を落とすよりはマシだ。物理法則は同調圧力なんて気にしてくれない。 路面の摩擦係数が限界を超えればどれだけ周りに合わせようが車はただの鉄の棺桶になって滑っていくだけだ。

 

50キロ制限には50キロにするだけの理由がある。それを守る勇気を持つこと。後ろの奴に「遅いな」と罵られようが「俺は死にたくないし、殺したくない」と腹を括ってスピードを緩める。

結局のところ命より大事な「流れ」なんてこの世には存在しない。

亡くなった方への追悼とともにハンドルを握る手を見つめ直し自分自身の慢心を戒める。