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日記(のようなもの)を毎日更新!!

やるか、やらないか【26/5/30】

土曜日は朝から出かける予定が入っているのでこの日記は金曜日の夜に書いている。

こういう日もある。

 

さらに日曜日も予定がある。たぶん日曜日の日記は土曜日の夜に前倒しで書くことになるだろう。未来の日記を過去の自分が代筆するような不思議な感覚。

 

そんな金曜日の今日は脚トレの日だった。

書いている今この瞬間は筋肉痛もないし神経的な疲労感もほとんどない。身体は妙なほど平和。

だが経験上この静けさは信用できない。

おそらく土曜日の朝には違和感が始まり日曜日には階段を前に絶望しているはずだ。椅子に座るだけで覚悟が必要になり立ち上がるたびに金曜日の自分へ文句を言っている未来が簡単に想像できる。

 

「なんであんなにやったんだ」

「加減を知らないのか」

そんな声が聞こえてくる。

 

自分はその文句に対してこう返す。

「ざまあみろ」

と。

 

もっとも今回は少しだけ反省もしている。

予定があるからといって脚トレを軽くする理由にはしたくなかった。予定を言い訳にして負荷から逃げる癖だけは付けたくない。

ただその一方で絶対強度は少し落とすべきだったとも思う。

 

やるか、やらないか。

その二択ではなくやるけれど調整するという選択肢も本来はあったはず。

トレーニングは一日で強くなるものではない。むしろ継続できることのほうが大事だ。未来の予定まで含めて負荷を設計するのもトレーニングの一部なのだろう。

 

とはいえ、もう遅い。

金曜日の自分はやり切った。

あとは土曜日と日曜日の自分がその請求書を支払うだけである。階段を降りるたびに、そして椅子から立ち上がるたびに。

一ヵ月【26/5/29】

気づけばアンダーカロリー生活も約1か月が過ぎた。

 

始める前はもっと苦しいものだと思っていた。空腹との戦いになるだろうし毎日食べたいものを我慢し続ける生活を想像していた。

ところが実際にやってみると意外なほど普通だった。

もちろん空腹を感じる日もあるし好きなだけ食べられるわけではない。でも想像していたほどの苦痛ではない。むしろ人間って案外慣れるんだなという感覚のほうが強い。

 

今の予定ではこの生活は10月末まで続く。

まだ4か月ある。

数字だけ見れば長い。だが振り返るとこの1か月もあっという間だった。そう考えると案外気づいたら秋になっているのかもしれない。

 

最近面白いのはまだ減量の途中なのにすでに増量のことを考えていること。

体脂肪を落とし切ったらどうするのか。

当然その後は少しずつカロリーを増やしていくことになる。

でもそこでふと疑問が湧く。

 

「そんなに食べられるのか?」

 

今は毎日アンダーカロリーが当たり前になっている。食事量も減ったし、映画館のSサイズのポップコーンで満足できるようになった。パスタも以前より少ない量で済む。

そんな状態から今度は意図的にカロリーを増やす。

理屈では理解できる。

筋肉を増やしたいならどこかでエネルギー収支をプラスにしなければならない。

でも感覚的にはすでに今の食事量が普通になりつつある。

むしろ増やせと言われた時のほうが苦労するかもしれない。

 

ご飯を少し増やす。
肉や卵を少し増やす。
間食を一つ足す。

その程度でも十分。

理屈上はそう。

 

そもそもまだ5月だ。

10月末まであと4か月。

今考えるべきなのは増量で何を食べるかではなく今日もアンダーカロリーを無理なく積み重ねることだろう。

ただそれでも少し先の未来を想像してしまう。

 

減量を続けていると好きなだけ食べられる日がどこか遠くに見える。その景色を想像すること自体が一種のモチベーションになる。

まあその頃には今の自分が想像している以上に身体も変わっているはずだ。

10月末の自分がもう少し絞るか、そろそろ増やすかと悩んでいるかもしれない。

その答えはその時の身体が教えてくれる。

 

だから今はまだ先の話だ。

まさに鬼が笑う。

でも4か月続けられそうだと思えている時点でこの1か月はかなり上手くいっているのだと思う。

怒涛の一週間と【26/5/28】

まだ木曜日なのに体感ではもう一週間が終わったような感覚がある。

 

今週はとにかく密度が濃すぎた。出来事が次々と流れ込んできて気づけば時間だけが前へ進んでいる。明日も予定が埋まっていてその先もまた埋まっている。

なのに不思議と全部がギリギリ噛み合って流れていった。

もちろん理屈で説明できる話ではない。偶然とタイミングの積み重ねなのだろう。でもあまりにも綺麗に流れすぎるとなんか出来すぎじゃないかと妙な感覚になる。

 

自分では思考が整理できていない自覚があった。

頭の中はずっと散らかっている。感情も追いついていない。それでもどこかでまだ動けると思っていた。

でも実際には身体のほうが先に限界を察知していたらしい。

今日は寝てはいけない時間帯にかなり深く寝落ちしてしまった。ここまで崩れるように眠ったのはかなり久しぶりだと思う。

以前の自分なら時間を無駄にしたと焦っていたかもしれない。でも今回は違った。

起きたあと妙に頭が軽かった。

 

完全に元気になったわけではない。問題が解決したわけでもない。でもどこか張り詰めていたものが一度リセットされた感覚がある。

やっぱり人間は思っている以上に疲労を自覚できていないのかもしれない。

精神的な疲れは特にそうだ。動けているうちはまだ大丈夫と錯覚してしまう。だが実際には脳も身体も静かに消耗し続けていてある瞬間に強制終了みたいな形で眠らされる。

 

今回の睡眠はたぶんそれだった。

そして起きたあとにふと思った。

ああまだ木曜なんだなと。

今週は長かった。濃かった。いろいろありすぎた。だから感覚としてはもう金曜の夜くらいまで進んでいる気がしていた。

 

でも現実はまだ途中だ。

まだ半分。
まだ続く。

そう考えると少し気が遠くなる反面ここまでを乗り切ったなら残りも何とかなるかもしれないという感覚も少しだけ出てきた。

今は無理に全部を整理しなくていいのだと思う。

疲れている時に無理やり綺麗な答えを出そうとしてもだいたいうまくいかない。今週みたいな時期はとにかく流れに飲まれながらでも前へ進むしかない。

 

そして眠れる時はちゃんと眠る。

「好き」という小さな感情【26/5/27】

気持ちが沈んでいる時人は大きな理由や劇的な救いを探しがち。

 

でも実際には心をぎりぎりのところで支えているのはもっと小さくて説明のつかない好きの感覚なのかもしれない。

 

たとえば音楽。

イントロが流れた瞬間「あ、この曲だ」と空気が切り替わる感覚がある。特に静かな始まりからAメロへ入る瞬間のキーボードやギターの音。たった数秒なのにその一音だけで気分が少し戻る時がある。

理屈ではない。ただ、その音が好きだというだけ。

 

筋トレも少し似ている。

素手でバーベルを握ったあと手のひらに皮がめくれた跡が残る。別にそれが何か大きな成果を証明しているわけではない。だが「ちゃんと身体を使った」という感覚だけは確かに残る。

傷つき回復しまた少し強くなる。

その流れを自分の身体で感じられることにどこか安心している部分がある。

 

雨上がりの夜道もそうだ。

濡れたアスファルトの匂い。白く曇ったカーブミラー。水を含んだ空気。昼間とは少し違うぼやけた世界の感じ。

あの時間帯だけは現実の輪郭が少し曖昧になる。いつもの景色なのにほんの少しだけ別の世界みたいに見える。その感覚が妙に好きだ。

 

キーボードの擦れた文字も最近よく気になる。

特に「A」のキー。何万回と押され続けた結果、表面が削れている。母音だから当然使用頻度は高い。でもその摩耗を見ていると「自分はずっと何かを書いてきたんだな」と実感する。

誰に届くかは別としてとにかく出力を止めなかった。その痕跡だけはちゃんと物として残っている。

 

そして、猫。

ツナ缶を開ける音を聞いた瞬間どこにいても反応する。さっきまで寝ていたはずなのに音もなく現れて期待に満ちた目でこちらを見る。

あの反応は本当に不思議だ。

言葉を理解しているわけではない。でも「これは特別なやつだ」ということだけは完璧に理解している。あの単純さと図々しさと愛らしさがどうしようもなく好きだった。

今はもう会えない猫もいる。

それでもツナ缶の音や歩き方や視線の動きみたいな記憶はまだ家の中に残っている気がする。

 

世の中にはどうにもならないことが多い。

不幸は突然来るし別れは避けられない。努力だけでは防げないこともある。

それでも人間が完全に壊れずに済んでいるのはこういう小さな好きが残っているからなのかもしれない。

 

好きな音。
好きな匂い。
好きな感触。
好きだった存在。

それらは劇的に人生を変えるわけではない。でも少しずつ確実に心を支えている。

だから今は無理に立ち直ろうとしなくてもいい。

ただ、自分の中にまだ残っている好きを静かに確認しながら次にまた少し動けるようになるまで待てばいいのだと思う。

強くなることより壊れないこと【26/5/26】

ここ数日体重の減少ペースが明らかに速い。

数字だけ見ればダイエットは順調に進んでいるようにも見える。だが同時に体脂肪率の数値がほとんど動いていないことに気づいた時、嫌な予感が頭をよぎった。

これは脂肪だけが落ちている状態ではない。

つまり筋肉も削れている。

正直それはかなり悔しい。

 

これまで積み上げてきた筋肉はただの数字ではなかった。時間をかけてトレーニングし食事を調整し少しずつ作ってきた努力の形そのものだったからだ。

もちろん原因はわかっている。

この3週間、精神的にかなり厳しかった。別れやトラブルが短期間に重なり常に頭のどこかが張り詰めている状態だった。気持ちを整理するだけで精一杯で筋トレに向ける余力がほとんど残っていなかった。

 

トレーニング頻度も落ちた。
食欲や睡眠も不安定だった。
そうなれば筋肉が減るのは当然とも言える。

 

身体は正直。

負荷が減ればこの筋肉はもう必要ないと判断して少しずつ削っていく。そこに感情はない。ただ淡々と今の環境に合わせて適応していくだけ。

だから最近はもっと頑張らなければという感覚と今は無理だという感覚が頭の中でずっとぶつかっている。

以前なら多少きつくてもバーベルを握れていた。だが今は違う。今無理に高重量へ戻っても途中で潰れる未来がかなりリアルに想像できてしまう。

 

身体ではなく心のほうが先に限界を出している感覚に近い。

それでも以前の自分なら気合でやれと無理に押し切っていたと思う。でも最近はその危うさもわかってきた。

人間本当に壊れる時は一気に壊れる。

だから今は頑張れない自分を責めすぎないようにしている。

 

もちろん筋肉が落ちるのは嫌。体重計を見るたびにせっかく積んできたのにという気持ちにもなる。

でも今優先すべきなのは身体のサイズではなくシステム全体を止めないことなのだと思う。

 

最低限食べる。
少し動く。
眠る。
完全にゼロにはしない。

今はそれで十分。

 

また落ち着けばトレーニングは戻せる。筋肉もある程度は取り戻せる。実際一度作った筋肉は戻りやすいと言われている。

だから焦らない。

今は無理にアクセルを踏む時期ではなくエンジンを切らずにやり過ごす時期なのだと思う。

 

この5月はあまりにも出来事が多すぎた。

だから今は強くなることより壊れないことを優先する。

愛猫を見送った日【26/5/25】

土曜日から急に様子がおかしくなった。

 

食欲、動き、呼吸。明らかに普段とは違う。

慌てて病院へ連れて行きそのまま入院になった。少しでも良くなる可能性を信じていたが返ってきたのは助かる見込みは難しいという現実。

 

だから家へ連れて帰ることにした。

最期は慣れた場所で過ごさせてあげたかった。

 

家に着いてすぐだった。

他の猫たちの顔を見て、家族の顔を見て、その直後、本当に静かに逝ってしまった。あまりにも突然ででもどこか確認してから安心して力を抜いたようにも見えた。

あの瞬間の光景が頭から離れない。

 

生き物はいつか必ず死ぬ。そんなことは昔からわかっている。当たり前の話。でも実際にその瞬間を目の前で見ると頭で理解していたはずのことが全部吹き飛ぶ。

涙が止まらなかった。

 

今月に入ってからこういう別れが続きすぎている。

親戚。知人。そして今回の猫。

短期間で何度ももう会えないを突きつけられるとさすがに心が追いつかない。不幸は続くという言葉をここまで現実として感じたことはなかった。

 

もちろん全部偶然なのだろう。誰が悪いわけでもない。防げなかったことも多い。頭ではそう整理している。

でも感情はそんなに簡単に納得しない。

最近、自分の中で何かが少し壊れている感覚がある。まだギリギリ動いてはいるが本当に正常なのかはわからない。

 

むしろ今はショックが大きすぎて脳が一時的に麻痺しているだけなのかもしれない。あとになってから一気に崩れる気もしている。

だから今は無理に元気になろうとは思わない。

 

前向きな言葉で整理しようとも思わない。

ブログも、運動も、ルーティンも、少し脇へ置く。悲しい時にまでちゃんとしなければと考え続けると本当に壊れる。

 

今はただ、泣けるなら泣く。

時間が過ぎるのを待つ。

 

一緒に過ごした時間が消えるわけではない。
好きだった場所も、仕草も、家の中に残っている。

だから今はその不在の大きさを無理に埋めようとしない。

静かになった部屋の空気を受け止めながらこの5月が終わっていくのをただ静かに待とうと思う。

不運【26/5/24】

不運というものは不思議なくらい重なる時がある。

 

一つだけならまあそんな日もあるで済む。だが妙に嫌なことが短期間に連続すると人はだんだんこれは本当に偶然なのか?と思い始める。

実際にはそれぞれ無関係な出来事なのだろう。

 

厄介なのは不幸というのは平穏を壊した瞬間にその価値を急に浮かび上がらせることだ。

何も起きない日。
普通に歩ける身体。
予定通り映画館へ行けること。
親族が元気でいること。

そういうものは問題が起きるまで当たり前すぎて意識されない。だが一つでも崩れるとあああれは結構ギリギリのバランスで成り立っていたんだなと気づかされる。

 

平穏は空気みたいなもの。

ある時は存在を忘れているのに失われた瞬間だけ急に重みを持つ。

そしてこういう時に人間は理由を探し始める。

「何が悪かったのか」
「どこで間違えたのか」
「なぜこんなに続くのか」

でも実際には、答えが存在しないことも多い。

 

偶然は偏る。
悪いタイミングは重なる。
どうにもできないことは本当にどうにもできない。

それを認めるのは一見すると諦めのようにも見える。だが本当は逆なのかもしれない。

 

自分にコントロールできない問題まで全部抱え込むと人間は簡単に壊れる。

だからこれは自分の責任ではないと切り分けることは逃げではなくむしろ正常に生き残るための技術に近い。

嵐の最中に無理に海を支配しようとしても意味がない。波は止まらないし風向きも変えられない。

できるのは船を壊さないことだけだ。

 

最低限の生活を続ける。
食べる。
眠る。
必要以上に自分を責めない。

それくらいでいい。

 

不運が続く時期というのはたぶん存在する。理由はわからないし理不尽。でもその時期を無理に分析し尽くそうとするとかえって消耗する。

だから今はそういう期間なんだと一歩引いて扱うようにしている。

 

無理に前向きにならなくていい。
全部を解決しようとしなくていい。

ただ完全に止まらず壊れずにやり過ごす。

結局長い人生で本当に大事なのは劇的に勝つことより全損しないことなのかもしれない。