不幸が連鎖し月末の仕事も立て込んで脳の処理限界を完全に超えた。
今はニュートラルに戻すことも日記の文章をひねり出すメモリも残っていない。
思考をすべてタスクキルしこのバグまみれの時間をただセーフモードでやり過ごす。
トップガン マーヴェリックは本当に不思議な映画だと思う。
何度観ても熱量が落ちない。むしろ観るたびにやっぱり面白いなという感覚が更新される。そして今回はそれを4DXで体験した。
座席が揺れ、風が吹き、重力まで身体に伝わってくる。あれはもう映画鑑賞というより搭乗体験に近い。戦闘機が旋回するたびに身体が振られスクリーンの中のスピード感と現実の感覚が同期していく。
純粋に、楽しかった。
その裏で個人的にはかなり大きな発見もあった。
人生で初めて映画館でポップコーンのSサイズを選んだ。
正直、最初は少なすぎると思った。あまりにも小さい。これで足りるのか?という不安はかなりあった。昔の自分なら迷わず大きいサイズを選んでいただろう。
だが実際に映画が始まりスクリーンへ集中しながらポップコーンをつまみ続けているうちに妙なことに気づいた。
普通に満足してしまったのである。
食べ終わったあとももっと欲しいという感覚がそこまで出てこない。
ここでひとつの仮説が浮かんだ。
もしかすると自分が欲しかったのは大量のポップコーンではなく映画を観ながら何かをつまむという行為そのものだったのではないか。
指を動かし、口へ運び、噛む。
脳はその一連の動作が続いているだけでちゃんと楽しんでいる、満たされていると認識していた可能性がある。つまり満足感は量だけで決まっていなかった。
これは最近の食事でも少し感じていた。
昼食のパスタを以前の100gから50〜80gへ減らしている。数字だけ見ればかなり減っているのだが意外なほど耐えられる。もちろん空腹ゼロではない。ただ耐えられないほど苦しいという状態にもなっていない。
ここでようやくわかってきた。
ダイエットというのはひたすら我慢する作業ではないのかもしれない。
むしろ少ない量でも脳を納得させる方法を探す作業に近い。
満腹になるまで食べ続けるのではなく食べたという行為そのものを上手く利用する。咀嚼する。時間をかける。満足感を脳に先回りさせる。
そう考えるとダイエットは単純な根性論ではなくかなり設計に近い。
もちろん極端な食事制限は続かない。だが実はそこまで大量に必要としていなかったという気づきは大きい。
映画館のSサイズのポップコーン。
以前の自分なら足りないと決めつけていた。
でも実際はちゃんと満足できた。
あの小さな容器は自分の食欲そのものより思い込みの大きさを可視化していたのかもしれない。
昼間の熱気が夜になってもアスファルトに残り続ける妙に蒸し暑い一日だった。
そんな気候とは別の意味で今日は重たい日でもあった。
親戚のお通夜。黒い服を着て静かな会場で焼香をしながら一人の人生が終わったという事実をただ受け止める時間だった。
年齢を重ねるにつれてこういう場面は確実に増えていく。
昔は、死というものはもっと遠い場所にある感覚だった。ニュースの向こう側や誰かの親世代の話。しかし気づけば自分の生活圏の中ですこしずつ見送る側に回る機会が増えている。
親戚、知人、昔お世話になった人。
アドレス帳の名前がゆっくり減っていく。
お通夜や告別式という場には独特の空気がある。悲しいというより静かに現実を突きつけられる感覚に近い。人間もいつか終わる。その当たり前の事実を否応なく意識させられる。
だからなのかもしれない。
誰かの終わりを目の前にすると不思議と自分はまだ動かなければならないという感覚が強くなる。
本来なら今日は運動を休んでもよかった。お通夜という予定が入った時点で今日は仕方ないと理由をつけることもできたと思う。
でも夜になってから歩いた。
約6km。特別な達成感があるわけではない。ただアンダーカロリーを維持するために淡々と歩数を積み重ねる。そのあと軽くインドアバイクも回した。
もちろん腰の状態は気にしている。無理はできない。だから走らないし高強度にも戻らない。ただ今できる範囲でゼロにしないということだけは守った。
こういうことを書くと不謹慎だと思われるかもしれない。
でも実際、人は他人の死をきっかけに自分の残り時間を意識する。悲しみと同時に自分はまだ生きているという感覚も強くなる。
結局、自分の人生を動かせるのは自分しかいない。
誰かの人生を完全に代わりに生きることはできないし誰かが自分の健康や身体を管理してくれるわけでもない。だから最後は自分で動くしかない。
食事を整える。
身体を動かす。
少しずつ体を立て直す。
そういう地味な積み重ねを続けるしかない。
世界は少しずつ暗くなっていく。別れも増える。それでも自分の身体と生活だけは自分で維持していかなければならない。
だから明日もまた、歩く。
カロリーを削り身体を動かし自分の生活を続けていく。
それが今の自分にできる最も誠実な生きるという行為なのだと思う。