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食欲バグ【26/5/22】

雨の日はダイエットの難易度が妙に上がる。

単純な話。外が濡れている。それだけでジョギングという日課が止まる。アスファルトにアクセスできないだけで一日の流れそのものが狂い始める。

 

もちろん理屈はわかっている。

走れないなら、食事を少し減らせばいい。消費が減るのだから入力も減らして帳尻を合わせる。それ自体は極めて合理的。

だがここで妙な現象が起きる。

 

運動していない日のほうが異常に腹が減る。

これが本当に厄介。

普通に考えれば走った日のほうが空腹になるはずだ。しかし実際には逆でジョギングをした日は意外と食欲が落ち着いている。

走った直後は食欲が少し止まる。呼吸が荒れ体温が上がり脳が今は食べるモードではないと判断しているのか一時的に欲求が静かになる。

 

つまりジョギングはカロリーを消費するだけではない。

むしろ重要なのは食欲そのものを抑えてくれる点にある。

ここを数字だけ見ている人は意外と軽視している気がする。

 

ジョギングの消費カロリーなんておにぎり一個分程度

たしかによく聞く話だし計算上はそうなのだろう。でも実際に継続している側からすると本当の価値はそこではない。

走ることで頭がリセットされる。
食欲の暴走が少し静かになる。
もう今日はいいかという感覚になる。

 

この脳への作用がかなり大きい。

だから雨の日はつらい。

消費カロリーは減る。なのに食欲を抑えるバフも消える。結果として動いていないのに腹が減るというかなり理不尽な状態になる。

結局こういう日は精神力に頼る場面が増える。

 

とはいえ最近は少し対策も見えてきた。

インドアバイクを軽く回すだけでも意外と食欲が落ち着くことがある。重要なのは大量消費ではなく脳を運動モードへ切り替えることなのかもしれない。

それと食べ方も工夫できる。

以前、映画館でSサイズのポップコーンでも普通に満足できた時に気づいたが人間は必ずしも大量のカロリーを求めているわけではない。

温かいスープを飲む。
噛む回数を増やす。
少量でも食べた感覚を作る。

そういう小さな工夫だけで脳は意外と騙される。

 

ダイエットというとどれだけ我慢できるかの勝負に見える。でも実際にはどうやって脳をうまく誘導するかのほうが重要なのかもしれない。

雨の日はその難しさが特によくわかる。

走れない。
消費できない。
なのに腹は減る。

そんな理不尽な日でもどうにか崩れずにやり過ごす。その積み重ねもまた長期的には身体を変える一部になるのだと思う。

たった2gの差【26/5/21】

身体づくりを数字で追っていると時々かなり残酷な現実が見えてくる。

先月のタンパク質摂取量の平均は140g。
今月ここまでの平均は138g。

差はたった2gだ。

 

一日単位で見れば誤差のようなものに見える。卵半分にも満たない程度の差だし気にしすぎる必要はないようにも思える。

しかし今日が5月21日だと考えると話が変わる。

2g足りない日が21日続けば合計で42g。プロテインでいえばだいたい2杯分に近い量になる。こうなるともはや誤差とは言い切れない。

 

原因もはっきりしている。

今月3日と4日。
この2日間タンパク質摂取量が100gを下回っていた。

たった2日だ。
だがその2日が今も月平均を引き下げ続けている。

 

平均値というのは思った以上に過去のミスを忘れてくれない。こちらがまあ仕方ないと流した日でも数字はしっかり覚えている。そして時間が経ってから静かに結果として返してくる。

ただこれは悪い話だけではない。

逆に言えば毎日ほんの少しだけ上乗せすれば月全体の数字はかなり変わる。

 

たとえば1日5gだけタンパク質を増やす。
卵半分プロテインを少し多めに入れるその程度でいい。

それだけでも30日続けば150gになる。

結局、身体づくりを変えるのは大きな決意よりも小さな差の積み重ねなのだと思う。

 

たった数グラム。
でもその数グラムを毎日積むか毎日取り逃がすかで月の終わりにはまったく違う結果になる。

今日の数字はかなり良い反省材料になった。

 

一日くらい適当でもいい。
ただしその一日も平均値には必ず残る。

だから明日からは最低ラインをもう少し厳しく見る。完璧を狙う必要はないが100gを下回る日は作らない。できれば毎日あと5gだけ上乗せする。

その小さな修正が月末の数字を変える。

身体づくりは結局こういう地味な管理の連続なのだと思う。

嬉しい代償【26/5/20】

昨日のトレーニングの代償が今日しっかり返ってきた。

ルーマニアンデッドリフト6セット。さらにレッグカール、カーフレイズ。下半身の裏側を集中的に攻めた結果、大臀筋とハムストリングスが見事に機能停止しかけている。

 

歩くだけで痛い。
立ち上がる時も痛い。
椅子に座る動作ですら「うっ」となる。

だがこの感覚には妙な満足感もある。

 

これまでルーマニアンデッドリフトはいまひとつ掴み切れていなかった。ハムには多少入る。でも本当にこれで合っているのか?という感覚がどこか残っていた。

今回は違う。

レッグカールのような局所的な張りだけではなくお尻の深い部分までしっかり筋肉痛が来ている。つまりハムだけではなく大臀筋まで含めて背面全体を使えていたということだ。

フォームがようやく噛み合った感覚がある。

 

ルーマニアンデッドリフトは単純に重りを上下させる種目ではない。どこへストレッチをかけるかどこで止めるか股関節をどう折るか。その少しの違いで効き方がまるで変わる。

だから今回の筋肉痛は単なる苦痛というより狙った場所に入ったという確認作業に近い。

もちろん日常生活の快適さはかなり犠牲になっている。

 

だが筋トレというのは結局そういうものなのだと思う。一時的に身体を壊しその修復によって前より強くなる。効率よく身体を変えようとするとある程度の不自由さは避けられない。

そして休む間もなく次の予定はもう決まっている。

 

金曜日はスクワット。今度は下半身の前側、大腿四頭筋を中心に追い込む日だ。

だから今やるべきことはシンプルになる。

食べる。
回復する。
寝る。

特に今は睡眠の重要性をかなり実感している。筋トレそのものよりどれだけ回復できるかのほうが身体の変化を左右する場面が多い。

 

プロテインを飲み、水分を取る。そして余計なことをせずちゃんと眠る。

筋肉はトレーニング中ではなく回復中に作られる。

そう考えると睡眠もまたトレーニングの一部なのだと思う。

 

今夜はもう無理に何かをしない。
あとは身体の修復機能に任せるだけ。

48時間後少しだけ強くなった下半身が戻ってくることを期待。

Sサイズ【26/5/19】

トップガン マーヴェリックは本当に不思議な映画だと思う。

 

何度観ても熱量が落ちない。むしろ観るたびにやっぱり面白いなという感覚が更新される。そして今回はそれを4DXで体験した。

座席が揺れ、風が吹き、重力まで身体に伝わってくる。あれはもう映画鑑賞というより搭乗体験に近い。戦闘機が旋回するたびに身体が振られスクリーンの中のスピード感と現実の感覚が同期していく。

 

純粋に、楽しかった。

その裏で個人的にはかなり大きな発見もあった。

人生で初めて映画館でポップコーンのSサイズを選んだ。

正直、最初は少なすぎると思った。あまりにも小さい。これで足りるのか?という不安はかなりあった。昔の自分なら迷わず大きいサイズを選んでいただろう。

だが実際に映画が始まりスクリーンへ集中しながらポップコーンをつまみ続けているうちに妙なことに気づいた。

 

普通に満足してしまったのである。

食べ終わったあとももっと欲しいという感覚がそこまで出てこない。

ここでひとつの仮説が浮かんだ。

もしかすると自分が欲しかったのは大量のポップコーンではなく映画を観ながら何かをつまむという行為そのものだったのではないか。

指を動かし、口へ運び、噛む。

脳はその一連の動作が続いているだけでちゃんと楽しんでいる、満たされていると認識していた可能性がある。つまり満足感は量だけで決まっていなかった。

 

これは最近の食事でも少し感じていた。

昼食のパスタを以前の100gから50〜80gへ減らしている。数字だけ見ればかなり減っているのだが意外なほど耐えられる。もちろん空腹ゼロではない。ただ耐えられないほど苦しいという状態にもなっていない。

 

ここでようやくわかってきた。

ダイエットというのはひたすら我慢する作業ではないのかもしれない。

むしろ少ない量でも脳を納得させる方法を探す作業に近い。

満腹になるまで食べ続けるのではなく食べたという行為そのものを上手く利用する。咀嚼する。時間をかける。満足感を脳に先回りさせる。

そう考えるとダイエットは単純な根性論ではなくかなり設計に近い。

もちろん極端な食事制限は続かない。だが実はそこまで大量に必要としていなかったという気づきは大きい。

 

映画館のSサイズのポップコーン。
以前の自分なら足りないと決めつけていた。

でも実際はちゃんと満足できた。

あの小さな容器は自分の食欲そのものより思い込みの大きさを可視化していたのかもしれない。

小さな引き算【26/5/18】

頭の中にいる自分はいつまでも昔の姿のままだったりする。

特に高校生くらいの頃の身体感覚は妙に基準として残り続ける。鏡を見ても脳は都合よく補正をかけるから自分ではそこまで大きく変わったつもりがない。

 

だからこそ不意に撮られた写真に驚かされる。

他人のカメラで切り取られた自分は脳内のイメージよりずっと大きかった。

あれ自分ってこんなにガタイがいいのか

その違和感はちょっとしたショックに近い。頭の中ではもっと細くもっと軽い感覚のまま止まっている。しかし現実の身体はちゃんと質量を持って存在している。

 

冷静に考えれば当然ではある。

今の除脂肪体重は高校時代の体重に近い。つまり当時の身体そのものに近い重量の筋肉をすでに積んでいる状態だ。そこにさらに脂肪や水分が乗れば見た目の厚みが増えるのは当たり前。

特に筋トレを続けていると太ったというよりデカくなる。

本人は日々少しずつ変化しているから気づきにくいが写真は容赦なくその結果を固定してくる。

 

だから最近ただ痩せるという感覚ではなく余分な部分だけを削るという意識に変わってきた。

ここまで積み上げてきた筋肉は簡単に減らしたくない。むしろ守りたい。問題はその上に乗っている余分な脂肪のほうだ。

筋肉を残したまま不要な部分だけを落とす。

言葉にすると簡単だが実際にはかなり地味な作業になる。毎日の食事、活動量、睡眠。その積み重ねを少しずつ調整していくしかない。

 

そして最近ようやくわかってきたのは毎日の体重を気にしすぎても意味がないということ。

体重は水分でも動くし食事でも変わる。短期の数字だけを追っていると精神のほうが先に疲れてしまう。

だから今は一週間単位でアンダーカロリーを維持できているかを見るようにしている。

 

今日だけ頑張るのではなく淡々と小さな赤字を積み重ねる。その考え方に変えてからかなり気持ちが安定した。

映画館のポップコーンみたいなものだ。

ひとつまみでは何も変わらないように見える。でも気づけばバケツは空になっている。

ダイエットも同じで急激な変化ではなくいつの間にか変わっていたが本来の形なのかもしれない。

 

写真に映った今の自分は確かに昔より大きかった。
でもそれはただ太っただけではなく長い時間をかけて身体を作ってきた結果でもある。

だから焦らない。
必要なのは全部を壊すことではなく余分な部分だけを静かに削っていくことだ。

あとはもう小さな引き算を続けるだけなのだと思う。

 
 
 

それでも続く生活【26/5/17】

昼間の熱気が夜になってもアスファルトに残り続ける妙に蒸し暑い一日だった。

 

そんな気候とは別の意味で今日は重たい日でもあった。

親戚のお通夜。黒い服を着て静かな会場で焼香をしながら一人の人生が終わったという事実をただ受け止める時間だった。

年齢を重ねるにつれてこういう場面は確実に増えていく。

 

昔は、死というものはもっと遠い場所にある感覚だった。ニュースの向こう側や誰かの親世代の話。しかし気づけば自分の生活圏の中ですこしずつ見送る側に回る機会が増えている。

 

親戚、知人、昔お世話になった人。
アドレス帳の名前がゆっくり減っていく。

 

お通夜や告別式という場には独特の空気がある。悲しいというより静かに現実を突きつけられる感覚に近い。人間もいつか終わる。その当たり前の事実を否応なく意識させられる。

だからなのかもしれない。

誰かの終わりを目の前にすると不思議と自分はまだ動かなければならないという感覚が強くなる。

本来なら今日は運動を休んでもよかった。お通夜という予定が入った時点で今日は仕方ないと理由をつけることもできたと思う。

 

でも夜になってから歩いた。

約6km。特別な達成感があるわけではない。ただアンダーカロリーを維持するために淡々と歩数を積み重ねる。そのあと軽くインドアバイクも回した。

もちろん腰の状態は気にしている。無理はできない。だから走らないし高強度にも戻らない。ただ今できる範囲でゼロにしないということだけは守った。

 

こういうことを書くと不謹慎だと思われるかもしれない。

でも実際、人は他人の死をきっかけに自分の残り時間を意識する。悲しみと同時に自分はまだ生きているという感覚も強くなる。

結局、自分の人生を動かせるのは自分しかいない。

誰かの人生を完全に代わりに生きることはできないし誰かが自分の健康や身体を管理してくれるわけでもない。だから最後は自分で動くしかない。

 

食事を整える。
身体を動かす。
少しずつ体を立て直す。

そういう地味な積み重ねを続けるしかない。

世界は少しずつ暗くなっていく。別れも増える。それでも自分の身体と生活だけは自分で維持していかなければならない。

だから明日もまた、歩く。
カロリーを削り身体を動かし自分の生活を続けていく。

それが今の自分にできる最も誠実な生きるという行為なのだと思う。