映画館に行くのは好きだ。あの大きなスクリーンに吸い込まれるような感覚、暗闇の中で没頭できる時間は特別だ。ただ、映画の内容以上に隣の席の行動が気になる日もある。先日もそんな日だった。
上映中、隣の人が持ち込み禁止の飲食物を食べ始めたのだ。それも「バレないように」こっそりと。それなら静かに済ませればいいのに、袋を開ける音がやたら大きく響いている。「そんなに音を立てるなら、もう堂々とした方がいいんじゃないか?」と思わず心の中で突っ込んでしまった。
その光景を見ながら、私は考え込んでしまった。「こういうマナー違反って、どうして無くならないんだろう?」と。映画館の持ち込み禁止ルールに限らず、街中の歩きたばこやポイ捨てもそうだ。何年も啓発活動が行われているのに、いまだに完全には無くならない。それどころか注意されると逆ギレする人もいる始末だ。
最近、こうした「ルールを守らない問題」は、日常生活だけでなく、ビジネスの領域でも目立つようになった。例えば電動キックボードだ。法律では車道を走るべきだが実際には歩道を疾走しているケースが多い。歩行者の横をスピードを出して走り抜ける姿を見ると「危ないな」と感じると同時に「ルールを知っててこれなのか?」と考えずにはいられない。
性善説は、人間の良心や善意に訴えかける理想的な考え方だ。でも、現実にはそれを軽視したり悪用する人が一定数存在する。その結果、ルールを守る人が不公平感を抱き、疲弊してしまう。そう考えると「人はルールがなければ好き勝手に行動するものだ」と捉えた性悪説的なアプローチが必要なのではないかと思う。
例えば、電動キックボードにGPSを付け歩道を走ると警告音が鳴る仕組みにする。あるいは、ポイ捨てや歩きたばこの取り締まりを強化する専任スタッフを配置する。もちろんそれにはお金も手間もかかる。「やらなくてもいいはず」のコストを負担するのは悔しいけれど現状ではそうするしかないのかもしれない。
そんなことを考えているうちに映画は終わりを迎え、エンドロールが流れ始めた。隣の人の袋の音もいつの間にか聞こえなくなっていた。映像の余韻に浸るどころか「世の中って何なんだろう?」と考え込んでいる自分が滑稽に思える。映画館のルールだって本来はお客さんを信じて性善説に基づいて作られている。でも現実には、こうして袋の音が響きスタッフも注意せず何となく「仕方がない」で終わっている。
もしこの映画館の光景が社会全体の縮図だとしたら私たちはどこに向かっているんだろう。エンドロールの文字を眺めながらそんなことをぼんやりと考えた。