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カタカナ語が分からないとダメですか?【24/12/12】

第一次安倍政権の頃やたらとカタカナ語が氾濫していた。「アジェンダ」「コンセンサス」「レガシー」……なんだかんだ耳にする言葉だったけれど正直さっぱり意味が分からなかった。「議題のことか」「合意のことね」と調べてようやく理解する。だけど、そこで気づいた。「これ、わざわざ調べるくらいなら、最初から分からないままでも困らないんじゃないか?」と。そして「そんな話をしている人の言葉なんて、聞かなくてもいいや」と思うようになっていた。

 

それが第二次安倍政権では様子が変わった。あれだけ多用されていたカタカナ語がほとんど姿を消したのだ。第一次の頃に「これは分かりにくい」と反省したのかもしれない。個人的にはこの変化は非常に高評価。言葉がシンプルになるだけでずいぶん理解しやすくなる。やっぱり言葉は相手に伝わってこそ意味があるものだ。

 

しかし、時代は繰り返すのか現代ではまたもやカタカナ語が増えている。「リスキリング」なんて最近よく聞くけれど、最初に聞いたときは「何それ?」となった。調べて「新しいスキルを学び直すこと」と分かったけれどいまだに耳なじみがない。覚えたはずなのに日常で使おうとするとなんだかしっくりこない。「スキルアップ」じゃダメだったの?と思ってしまう。

 

こういう違和感、振り返ってみると大学時代から感じていたのかもしれない。教授が「次回の授業ではレジメを配布します」と言ったとき「レジメって何?」とまずつまずいた。要するに「プリント」だと分かってほっとしたけれど「じゃあ最初からプリントって言ってくれればいいのに」と思わずにはいられなかった。何かカッコいい雰囲気を出したかったのだろうか。それとも、大学という場所では「レジメ」と言った方が格式が上がるのだろうか?結局、未だにその理由は分からない。

 

もちろん、新しい概念や技術にはそれを表現する新しい言葉が必要だということは分かる。でも、わざわざカタカナ語にしなくても、日本語で表現できる場面は多いと思う。「リスキリング」を「スキルの再習得」とか「レジメ」を「配布資料」と言い換えても十分伝わるのになぜわざわざ横文字を選ぶのか。もしかしたら、それを使うことで少しだけ「今風」に見せたいという理由があるのかもしれない。

 

言葉は相手に伝わるための道具だ。それが分かりにくいものであれば、ただの自己満足に過ぎない。「分かりやすさ」が何より求められる時代にあって、わざわざカタカナ語を選ぶ理由は何だろう。もしもその理由が「雰囲気」や「カッコよさ」なら、それこそ時代遅れじゃないだろうか。

 

「レジメ」で戸惑ったあの日からずいぶん時間が経ったけれど、相変わらずカタカナ語には悩まされる。せめて「リスキリング」と言われなくても理解できるくらい、言葉のリハビリが必要なのかもしれない。でも、私としては「プリント」や「スキルアップ」といった分かりやすい言葉が、ずっと使い続けられる世界の方がありがたいと思う。