既存のメディアを疑う。これ自体は賢い選択だと思う。報道や情報の偏りに気づくことは情報社会で生きる上で必要なリテラシーだ。でも最近感じるのは疑いが行き過ぎて逆張りが習慣化している人の多さだ。何か新しい情報を目にするとまずは「これ、本当?」と疑い、次に「何か裏があるに違いない」と決めつける。その繰り返しで、いつしか既存のメディア全体を敵視してしまう。
それだけならまだいい。問題はその先。既存メディアを信じない反動でネット上で拾い集めた情報をそのまま鵜呑みにしている人が多い。「自分で見つけた情報だから正しい」と信じてしまう。その情報が本当に正しいかどうか検証する努力はしない。これがとても滑稽に見える。
AIが作った情報がネットに溢れる今、見つけた情報の真偽を疑うことはますます難しくなっている。記事も動画もAIが巧妙に生成した「もっともらしい」ものが増えている中で「これは自分で探した情報だから本物だ」という姿勢は危うい。最初は疑いから入ったのに、最終的に自分が見つけた情報は全く疑わないというのは何とも矛盾している。
情報というものは本来お金や労力をかけて手に入れるべきものだ。それが無料のインターネットで簡単に得られるようになった。だからこそその情報が本当に価値のあるものかどうか判断する目が必要になる。「私は真実を知った」と思い込むその瞬間、実は自分がただの受け身になっているかもしれないことを忘れてはいけない。
一次情報を手に入れようとする努力を怠り、ネットの片隅で誰かが書いたコメントや断片的な情報だけで「知った気になる」。それが心地よいのはわかる。簡単だし労力が少ない。でもその先にあるのは逆張り思考に縛られ自分の見つけた情報にすら疑問を抱けなくなるという自己矛盾だ。
「疑いすぎて、疑わなくなる」。これが今の情報社会の皮肉な一面だと思う。本当に情報を理解したいなら自分が信じたものにさえ疑問を投げかける。その姿勢がない限り結局はどんな情報もただの消費物で終わってしまうのではないだろうか?