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電車の座席と社会の不公平【25/1/5】

鉄道に乗ると、ふと考える。同じ運賃を払っているのに座れる人と立つ人がいる。この不公平感はどうしても拭えない。自分が座れたときは何も思わないくせに、つり革につかまりながら揺られているときは「これで同じ料金なの?」とモヤモヤしてしまう。こんなことを思うのはまだまだ人間ができていない証拠なのだろう。

 

だがものは考えようだ。もともと電車はみんな立つのが基本で座席は「特別に用意されたオプション」だと考えれば不公平感も少しは和らぐかもしれない。「立つ権利は平等で、座る権利は運やタイミング次第」という仕組みだと思えば納得できる……いや、できるだろうか?

 

そんな考えを巡らせていると「だったら座席なんて最初から作らなければいいじゃないか!」という声が頭をよぎる。みんな平等に立てば不公平なんて感じない――もっともらしいこの意見でもどこか違和感がある。世の中に目を向ければ、こうした「みんな平等に」という声が結果的に何かを犠牲にしている場面がたくさんある。

 

例えば、かつての銀行業界が採用していた「護送船団方式」。一番遅れている銀行に全体のペースを合わせ全体を守る仕組みだったが、成長力を失い競争力が低下した。結果としてその方式は廃止され銀行は個別に競争力を高めた。護送船団方式は「みんな平等」に見えたが長い目で見れば限界があったのだ。

 

電車の座席問題をこれに重ねてみると、全員が立つことで平等を実現するという案は一見公平に見えても助けを必要とする人々――高齢者や妊婦、体の不自由な人たち――を置き去りにする可能性がある。平等を求めすぎるとむしろ不平等を生む矛盾がある。

 

車窓を眺めながら、揺れる車内でぼんやりと考える。不公平とは案外社会そのものを支える仕組みなのかもしれない。完全な平等を目指すのではなく不公平の中でお互いの立場を理解することが実は大事なのだろう。

 

とはいえ、目の前で寝たふりをしている乗客を見ているとそんな理想論はどこかに消える。「席を譲る平等」すらも夢物語かもしれない――そんな皮肉を抱えながら車窓の向こうに流れる街の光を見つめるだけだった。