スピカぴかぴかましゅまろパクパク

日記(のようなもの)を毎日更新!!

才能評価を押し付ける不条理【25/1/8】

togetter.com

読んで思ったこと似てる部分もあるけど自分の考えも含めて。

 

 

すべての教科に潜む問題かもしれないが、体育の授業に関しては特に擁護が難しい。勉強なら努力や工夫である程度のリカバリーが効くが運動能力は先天的な差が明確。走るのが遅い、ボールを扱えない、リズム感が欠如している――そんな生まれ持った特性をわざわざ点数化し「できない」ことを強調する必要がどこにあるのだろう?将来、プロアスリートを目指しているわけでも特別な才能を発掘したいわけでもない。ただ身体をうまく動かせないという理由で内申点に影響し、高校入試にさえ左右する理不尽さには、首をかしげざるを得ない。

 

これと同じ構造は音楽の授業にも当てはまる。歌が下手、楽器が扱えない、音が取れない――そんな才能の壁を前に努力不足や積極性の欠如として減点される。スポーツも音楽も人生において絶対必要なスキルではない。大人になってから興味が湧けばそのときに始めればいいだけだ。そもそも「基礎」など学校で一律に教えられるものではない。必要性や興味が生まれたとき自分で教室や教材を探し学び始めればよい話。

 

それなのに義務教育という名のもとにすべての子どもたちに同じ運動や演奏を強制し、才能を測るかのような真似をする。もちろん体育や音楽に救われる子どももいるだろう。しかし全員を同じラインに並べその中で評価しようとする仕組みが妥当だとは思えない。何の興味もない子に「走れ」「跳べ」「吹け」と指示しできなければ点数を下げる。それが将来の選択肢まで揺るがすのだからもはや滑稽ですらある。

 

大人になって振り返ればスポーツも音楽もその他芸術等も「やりたくなったらそのとき始めればいい」ものなのだと気づく。得意な人は勝手に伸びるし苦手な人は無理にやらなくても生きていける。そもそも誰もが同じようにできる必要もなければ、才能を数値化し他者と比較する意味もない。こうした自然な多様性を無視して子どもに無理な適性試験を課すかのような教育システムは本当に必要なのだろうか?

 

大人になってからで十分。基礎なんて学校が一括で与えるべきものではないし、そもそも与えられない。興味が生まれ必要性を感じたその瞬間そこから始めればいい。そんな当たり前のことが見えなくなるほど「当たり前」とされてきた教育慣習に囚われている。