子供のころ国語の教科書に載っている俳句を読んで本気でこう思っていた。
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」ねぇ…。五七五たったの17文字。こんなの誰でも詠めるだろと。
季節の移ろいや目の前の情景をただ言葉にするだけじゃないか、と。本気でそう見下していたのかもしれない。
だが大人になった今、同じように何かを感じそれを17文字で切り取れと言われてもまず無理。出てくるのはどこかで聞いたような陳腐な言葉ばかり。あの頃あれほど簡単だと思っていた世界のなんと遠いことか。
そこでふと疑問に思う。
あの頃の生意気な自分にもあったはずの瑞々しい感性は一体どこへ消えてしまったんだろう。
大人になる過程で単純に失ってしまったのか。
それとももっと残酷な話でそもそも初めから自分にはそんなものはなかったのか。
…いや、前者だと思いたい。きっとそうだ。
そして、それは失ったというより生きていく上で他の能力を伸ばすために、自ら間引いた感受性なんだと考えることにしている。
たくさんの苗を植えてもその全てを大きく育てることはできない。いくつかを選んで残りを間引くことで選ばれた苗はより力強く立派に育つ。それと同じで、社会で生きていくための論理性とか協調性とかそういうものを育てるために、あまりに純粋で繊細すぎる感性は一時的に間引かれる必要があったんだ。そう、思いたい。
さらにこうも信じたい。
その間引かれた感受性は決して無駄に消えてしまったわけじゃない、と。
それは自分の心の土の中で静かに時間をかけて栄養となり豊かな肥料となっているんだ。
そうしていつか何十年後かになるかもしれないけどその豊かな土壌からまた新しい、若い頃とは違うもっと深みのある何かが芽生えて自分の中にちゃんと還ってくる。
失ったわけじゃない。それはいつか来るべき時のための肥料になっているだけ。