定期検診のために歯医者へ行ってきた。日頃のケアの甲斐あってか衛生士さんからは「きれいに磨けていますね」とお墨付きをもらった。しかし口内の最果て親知らずにだけは小さな穴が開いているのが見つかってしまった。幸いまだ抜くほどではないとのことでその場でレジンを埋め込む処置をすることになったのだがこれが地味にかつ強烈な苦行だった。
親知らずというのは口腔内の最も奥まった場所にある。そこに器具を到達させるためには唇の端をグイッとそれこそ物理的な限界まで引っ張る必要がある。「ちょっと引っ張りますねー」という軽い言葉とは裏腹にその力加減は容赦がない。口角がピキピキと悲鳴を上げ皮膚が裂ける寸前のテンションがかかる。治療中ある昭和の都市伝説を思い出していた。
口裂け女。
彼女の口が耳まで裂けているのは整形手術の失敗だというのが通説だが絶対に違う。あれは間違いなく腕力に頼りすぎた歯科医による親知らずの治療ミスだ。「もっと奥まで見たい」という医師の熱意と「もう限界です」という患者の皮膚の強度が決裂した瞬間に生まれた悲劇。治療を終えてジンジンと熱を持つ自分の口元をさすりながら妙にリアルな怪異の誕生秘話に納得してしまった。実際うがいをした時に少し鉄の味がした気がするのは気のせいだと思いたい。
それにしても普通なら「親知らず=即抜歯」となりそうなものだが今回の先生は違った。 「まっすぐ生えているし噛み合わせにも参加しているから使えるうちは使っておきましょう」と言うのだ。まるで少し調子の悪い家電を「叩けば直る」と言って使い続ける昭和の親父のようなあるいはまだ着られる服を捨てられない貧乏性のような精神。
でもその自分の体の一部を安易に捨てないという判断は嫌いじゃない。 将来他の歯がダメになった時にこの親知らずを移植する保険になる可能性だってあるわけだし。
結局唇の端に微かな痛みを残したまま僕の親知らずは延命された。口裂け男にならなかったことに安堵しつつ最果ての歯もまた自分の体を構成する大事な資産なのだと言い聞かせる。とりあえずこれ以上あの拷問を受けないで済むように今日からは歯ブラシを喉の奥まで突っ込んで磨くことにしよう。