ミラノ・コルティナダンペッツォ冬季五輪が開催されているが驚くほど盛り上がっていない。冬の大会特有の寒々しさを差し引いても人々の関心はかつてないほどに薄れているように感じる。その理由は単なる飽きではなく五輪という存在そのものが日常からあまりに遠い場所へ行ってしまったからではないか。
冬季五輪の競技を眺めているとふと思う。これは才能の競い合いである以上に膨大な資本の競い合いなのではないかと。
ボブスレー、スキー、フィギュアスケート……。
どれも並外れた才能が必要なのは言うまでもないがそれ以上に専用の施設や高価な道具そして海外遠征を支える莫大な資金がなければスタートラインに立つことすら叶わない。才能があっても金がないとできない。そんなスポーツの格差を見せつけられても大多数の庶民にとってそれはもはや自分たちの地続きにある物語ではない。
さらにルールの複雑化も拍車をかけている。回転数や芸術点あるいはミリ単位のタイムを競う緻密な判定は玄人には興味深くてもライトな視聴者にとってはなぜ今の人が勝ったのかが直感的に理解しにくい。
そこに時差の壁とテレビというメディアそのものからの離脱が重なる。スマホで断片的な速報を眺めるだけの僕たちにとって時間かけてじっくり競技を観るという体験はもはや贅沢というよりはコストになってしまった。
結局IOCも各国もこの仕組みが限界に来ていることを薄々感じているはず。けれど膨大に膨れ上がった利権やサンクコストを前に抜本的なテコ入れは行われずだらだらと同じ形式が繰り返されていく。一部の特権階級が楽しむ道楽のために街を改造し莫大な公金を投じることへの違和感。かつては国家の威信や夢の象徴だった五輪が今や社会の余白を削り取る重荷のようにさえ見えてくる。
氷の上の華やかな舞も雪原を切り裂くスピードもそれ自体は美しい。けれどその美しさが選ばれた富裕層だけの特権の上に成立していることが露骨に見えてしまう2026年の今、僕たちはもう以前のように純粋な熱狂を持って画面を眺めることはできない。
静かに流れる五輪のニュースをBGMにまた一つ時代が変わってしまったことを実感していた。