「二・二六事件において海軍は関わっていないのか。」
入り口はそんな素朴な疑問だった。調べれば答えは明快だ。組織としては陸軍の青年将校が主役であり海軍は基本的に鎮圧側に回っていた。
青年将校が何を目指していたのかを辿れば必然的に北一輝という人物に行き当たる。 ここで歴史は単なる年表であることをやめ現代に突き刺さる設計図へと変貌する。
北一輝は現代の言葉を借りれば国家のOSを強制アップデートしようとした男だ。それも段階的な修正ではなく一度システムを停止させ根底から入れ替えるという過激な手法を選択した。普通選挙や再分配、財閥統制といった項目だけを抜き出せば現代でも拍手が起きそうな内容が含まれているのが厄介。しかしその中核にあるのは憲法停止と強権という非常手段。目的が正義に見えるほど手段の危うさは不可視化される。政治の速度の問題ではない。ブレーキを外すか否かという一線。そこが最も恐ろしい。
敗戦後のGHQによる改革も見方によっては合法的かつ強制的な改造に見えるかもしれない。外圧によって国の設計が書き換えられたという感情的な側面は理解できる。しかし占領統治は国家間戦争の結果としての強制力であり国内の政治テロやクーデターとは本質的にカテゴリが異なる。共通しているのは強制の気配だけであり違法な暴力で政治をねじ曲げるテロリズムと混同すれば二・二六事件の暴力が持つ責任まで曖昧になってしまう。
明治憲法の致命的な欠陥は統治の最終責任と軍を縛る鎖の曖昧さにあった。内閣が国会に対して責任を負う仕組みは脆弱で解釈の最終決着を司法が安定させることもなかった。天皇機関説のような近代的な読み替えも政治の風向き次第で容易に潰される。条文を改正するのではなく運用と解釈でねじ曲げていく誘惑。その最終審判が制度的に固定されていなかった結果、国家は条文以前に空気によって歪められていった。
そしては現代の最も敏感な領域である憲法九条へと滑り込む。九条が他国の核保有を招いたという直結的な因果関係には無理があるが九条が日本は核を持ちにくいという構造を作り相手の戦略的な計算を容易にさせている側面は否定できない。問題は条文の美辞麗句ではなく相手に誤算を生じさせる曖昧さにある。反撃の可否や範囲が不透明であればあるほど侵略側にいけると思わせる余地を与えてしまうと思える。
人海戦術で押し寄せられればこちらは無限の反撃を強いられ勝つ手段がないのではないかという恐怖。その方向性は正しいかどうかは置いておくとし、敵国の首都を占領して終わらせるという勝ち方は現行の解釈では極めて困難だ。
だが防衛における勝利とは相手の政治目的を達成させないことに他ならない。上陸作戦の前提となる補給線や通信網を潰し継続不能に追い込む。その勝ち筋を成立させるのは精神論ではなく準備の厚みだ。
日米同盟という現実も条約があるから安心だという短絡的な思考では不十分。米軍の投入が政治的な理由で限定的になるリスク長期化するコストの所在。同盟の確実性を担保するのは共同計画、弾薬、燃料、基地防護といった極めて地味で実務的な積み上げである。ここを疎かにすれば同盟という盾は瞬時に薄氷へと変わる。
中国が欲しているのは日本という国そのものよりも日本列島が持つ地理的な機能だ。 太平洋への出口であり監視網であり要衝であるこの列島を彼らは無力化したいと考えている。占領コストが跳ね上がる統治よりも列島の機能を分断し使いにくくさせる方が合理的だからだ。日本列島はアメリカにとっての防波堤であり中国にとっての巨大な障害物であるという冷徹な地政学的現実。
不満が高まるとき人は往々にして北一輝が示したような近道を選びたくなる。しかし、現代の安全保障に近道など存在しない。ルールを破壊して一気に世界を変えるのではなく地味な準備と制度的なブレーキによって相手に割に合わないと思わせ続ける。
ゆっくりと、着実に。
それは単なる美徳ではなくこの不条理な世界を生き抜くための唯一のそして最も現実的な技術に他ならないと思う。