人間の体は完成品なんかじゃない。
完成どころかいまも静かにパッチが当たり続けている未完成のプロトタイプ。親知らずは退場し使われない筋肉は静かに縮む。一方で長時間座る生活に合わせて骨や関節の負担配分は変わり血管の走り方すら世代をまたいで最適化されていく。このちぐはぐな更新の連続が私たちの今を作っている。
数万年後、指が六本に増えることはたぶんないと思う。生物の設計図は思った以上に保守的だから。
けれど親指は違うかもしれない。スマホや精密機器を扱うために酷使されより長くより可動域の広い形に寄っていく可能性はある。そして自然任せの進化は燃費の悪い筋肉を削ぎ落としより省エネで中性的な体つきへと人類を収束させるだろう。高強度の運動を好む少数派は意志で鍛え続けるが種全体としては軽量化が進む。効率は美徳であり無駄は静かに淘汰される。
だがここに人間特有の横槍が入る。ゲノム編集という近道。
筋肉量を増やし病気を未然に潰し能力を底上げする。かつては反則と呼ばれた行為も歴史の時間軸に置けば標準装備へと変わる。
文字は記憶力を鈍らせると恐れられ眼鏡は自然への背信だと批判された。いま私たちが不自然だと顔をしかめる技術も未来から見れば日常のケアにすぎない。倫理は固定資産ではなく流動資産だ。
さらに人工子宮が普及すれば生殖は身体から切り離される。国家や巨大企業が管理するインフラとして最適化され性差は統計上のノイズに近づく。カップリングは文化の問題になり身体的制約は後景に退く。
生身の肉体をぶつけ合う競技は資産価値の高い身体を損耗させるリスク行為として縮小するかもしれない。
つまり血統のロマンで語られてきた競馬もやがては設計思想とデータの競演になる。感情は残るが偶然は減るのかなって思う。
進化とは不自由からの解放。だがすべてがデザイン可能になった瞬間私たちは何をもって自分と呼ぶのだろう。遺伝子も肉体も後天的に編集できるならアイデンティティはどこに錨を下ろすのか。
数万年後の人類が血の通った未完成の身体を非効率ゆえに愛おしいと振り返る日が来るかもしれない。最適化の果てであえて不完全さを選ぶ自由こそが最後に残る人間らしさなのだと思ったり。