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共通のノスタルジー【26/3/1】

アメリカの教室には星条旗が掲げられているという。多民族国家を束ねる接着剤としての旗。対して日本の教室を思い浮かべれば黒板の横に鎮座するあの無機質なスピーカーこそが、真の象徴であったと言える。

チェンソーマンレゼ篇で暗がりのスピーカーが日の丸のように見えた。

そこから連想する。

掲げられているのは旗ではなく音。チャイム、放送、校長の声。規律を一斉に届ける見えない指揮官。その丸い網目は思想ではなく時間割という名の秩序を統治していた。

 

夜の学校は現実には機械警備が作動する不法侵入の現場に過ぎない。しかし人々の内部には夜の学校は忍び込める場所であるという妙に強固な概念空間が存在する。

部活終わりに部室で過ごし窓の外が群青色に沈んでいくあの時間。日常が非日常に浸食される感覚の延長線上に存在しなかったはずの夜の冒険が接ぎ木されている。

 

記憶の素材は本来もっと泥臭いものだった。 エアコンなど存在しなかった時代。夏は天井の扇風機がプリントを舞い上げ、冬は教壇横のストーブに近い当たりの席を巡って小さな政治が起きた。暑さ寒さは平等ではなく席順という名の運命に左右されていた。

 

雨の日上履きがキュッキュッと鳴る廊下。ワックスの匂い。掃除の時間、焼却炉までゴミを運ぶあの数分間だけなぜか世界が広がった気がした。単なるゴミ捨てが許された外出であった。

錆びた手すりと南京錠に守られた屋上。立ち入り禁止という禁忌がいつの間にか自由の象徴として脳内で再開発されている。実際には足を踏み入れられなかったはずの場所の風の強さや夕焼けの色を思い出せるのはなぜだろうか。

 

こうした退屈な現実は映画や漫画の洗練された映像によって少しずつ上書きされていく。存在しなかった夜の侵入劇や見たことのない屋上の絶景があったかもしれない過去として記憶の中心に居座る。

フィクションは味気ない過去を美化するための共犯者であり記憶を再編集するソフトウェアでもある。スピーカーが国家の象徴に見え、立ち入り禁止の屋上が解放の象徴に変わる変換作業を人々は無自覚に受け入れている。

 

錆びた手すりのざらつきを思い出しながら画面の中に失われた青春の答え合わせを探しに行く。

本当はそこに答えなどないと知りながら。

探しているのは青春そのものではなく、物語という秩序を与えられた自分という存在の輪郭なのかもしれない。