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魂の殺人と、巨大な財布の中の茶番【26/3/4】

小学館のマンガワンを巡る一連の騒動。

そこから立ち上る言葉にできないほど重く暗い沈殿物が心の底へと音もなく積もっていく。被害者の尊厳を根底から破壊する魂の殺人。その加害者を事実を把握しながら別名義で再起用していた編集部の姿勢は企業倫理の欠如という言葉だけでは到底拭い去れない。口外禁止を条件とした示談の提示。それは救済ではなく事実の圧殺に他ならない。

 

被害者の苦痛は一生消えることはない。

どれほど時間が経とうとどれほど金銭が積まれようと失われた平穏な日常は二度と戻ってこない。それなのに加害者はペンネームという仮面を付け替え再び称賛を浴びる舞台へと戻っていく。この圧倒的な不均衡を前にして強い憤りを感じないわけにはいかない。

 

しかし今回の騒動をさらに絶望的なものにしているのはその後に展開される構造的な茶番だ。一部の作家がアプリからの離脱を表明し一見すると正義がなされたかのように見える。だが実態は小学館という巨大な傘の下であるアプリから別のアプリへ作品が移動したに過ぎない。結局どの作品を読もうとどのアプリを開こうと最終的に利益が流れ込む財布は同じなのだ。

 

これはかつての「きのこの山・たけのこの里論争」や「AKBの選抜総選挙」を見せられているような感覚に近い。どの陣営を応援しようと誰に投票しようと結局は主催者が一番得をする仕組み。対立構造そのものがコンテンツ化され肝心の性犯罪への向き合い方という本質が企業の保身という厚い壁の中に隠されていく。

 

こうした冷徹なビジネスの論理を前にすると無関心を装いたくなる衝動に駆られる。 しかしそうやって目を逸らそうとする姿勢に対してどうしようもない嫌悪感が湧き上がってくる。巨大な組織を相手に個人の声など何の意味も持たないという無力感。時間が経てばまた新しい話題に塗り替えられこの一件も「なあなあ」で終わってしまうのではないかという予感。

 

それでもこの「白けた視点」と「違和感」を捨て去るべきではないとも思う。 

企業が「面白いものさえ出しておけば消費者はどうせ忘れるだろう」と高を括っているのだとしたらその目論見に対して冷めた目で見続けることだけがせめてもの抵抗になる。 

このモヤモヤとした自己嫌悪こそがまだ魂の殺人を他人事として完全に切り捨てていない証拠なのだと言い聞かせるしかない。