すべてはデーモン・コアという不吉な名を持つプルトニウムの塊への興味から始まった。
マイナスドライバー一本で臨界の淵を歩くような、あまりに無防備な実験。わずかな手元の狂いが青い光を呼び二人の科学者の命を奪ったという事実に戦慄を覚える。
同じプルトニウム球で二度も事故が起きている。当時の科学の最前線がいかに危うい均衡の上に立っていたかを物語るエピソード。
ふとした疑問から放射線が人間の体で遮れるのかという点に行き当たった。
人体の大部分を占める水が結果的に中性子を減速させる。完全な盾にはなり得ないが事故の瞬間に誰かの体が同僚を守る形になった可能性。物理現象としての残酷さと皮肉な救い。
そんな過酷な現象が実は人類の誕生より遥か昔、約20億年前のアフリカ・オクロで天然の原子炉として存在していたという事実は自然の計り知れなさを突きつけてくる。
核というエネルギーは二つの顔を持つ。
ウラン235やプルトニウム239といった元素が発電に使われれば低炭素な巨大エネルギー源となり兵器に転用されれば都市を一瞬で灰にする。医療や科学を支える光とすべてを終わらせる闇。広島と長崎の悲劇を辿れば犠牲者の多くが民間人であったという重い事実にぶつかる。
歴史の裏側には実戦投入の前に無人島で実験を見せるべきだという科学者たちの「フランク報告」があった。しかしその切実な提案が採用されることはなかった。広島の街に残された人の影は人間が蒸発した跡ではなく強烈な熱線によって周囲の石が焼けて変色し影の部分だけが元の色を留めたものだという。
その影はあの日、日常が一瞬にして物理現象に飲み込まれた証拠として今もそこに刻まれている。
核という技術そのものに善悪はないのかもしれない。それは人類の知性の極致であり同時に自らを滅ぼしうる矛盾。結局のところ問題は技術の完成度ではなくそれを扱う人間の判断そして倫理という名のブレーキが正しく機能するかどうかにかかっている。
神の火を手にした人類がその火で未来を照らすのかそれともすべてを焼き尽くすのか。 その答え合わせは今も続いている。