気づけば空気の密度が春のそれに書き換えられている。
数日前まで頼りにしていたダウンジャケットは今や過剰な熱を孕むだけの重荷へと成り下がった。しかし厄介なのはその温度の二面性。日中の陽気に誘われて薄着で踏み出せば朝晩の冷え込みが牙を剥く。このちょうど良さの不在が春という季節の不誠実さを象徴している
だが真に困惑させているのは単なる気温の乱高下ではない。
ダウンという歩く収納を失ったことによる物理的なキャパシティの崩壊。内ポケットや左右の深いポケットに、財布、鍵、花粉症の薬、目薬……日常の断片をすべて飲み込んでくれていたあの安心感が布切れ一枚の軽装とともに霧散してしまう。
ポケットという特権を奪われた身体は突如としてカバンという外部デバイスの携帯を強要される。手ぶらという自由を捨て片手を塞がれる不自由。あるいは背中に密着する異物の感触。春はミニマリズムを奪い去る。
さらに薄着になることは心理的な防壁を薄くすることにも似ている。厚いダウンに守られていた財布は今やパンツのポケットというある種の無防備な境界線に晒されている。
紛失への不安、花粉による粘膜の炎症そして服の選択肢という名の迷宮。春という言葉が持つ華やかなイメージの裏側で管理しきれない情報の増大に「ぐぬぬ」と唸るしかない。
もちろんその先に待ち構える本格的な夏もまた別の意味での地獄。
湿度と熱気が思考を停止させさらなる薄装が収納能力をゼロへと近づけていく。理想を言えば世界がずっと秋の静寂と適度なジャケットを許容する気温に留まってくれればいい。
ポケットの充足と澄んだ空気。そんな贅沢な停滞を願いながらカバンを持つべきか否かという些細でしかし切実な選択に頭を悩ませている。