「商店街とイオンは共存できる」
その一文を読んだのはどこかの大学生の卒論だった。
妙に整った文章ときちんと並べられた根拠。いかにも正しいことが書かれている体裁だったのになぜか最初の一行でつまずいた違和感が何年経っても消えない。
大学生の卒論というものは綺麗な結論に収束していく。
仮説は肯定され議論は整理され最後には前向きな言葉で締めくくられる。
現実の濁りや歪みは評価されやすい形に整えられる過程で静かに削ぎ落とされていく。
思い返せばその結論を支えていたのはどこかで見たような美しい前提だったはずだ。
日常品はイオンこだわりは商店街という棲み分け。
イオンに来た客が商店街にも流れるという相乗効果。
個人店の技術や人情が利便性に対抗しうるという期待。
どれも理屈としては間違っていない。
むしろ卒論としては模範的ですらある。
ただその整いすぎた前提が現実の街並みとどうにも噛み合わない。
駐車場があり天候に左右されずすべてが一箇所で完結する場所に人が集まるとき、
ついでに商店街へという行動は思っているより簡単に切り捨てられる。
結果として起きるのは棲み分けではなく吸収。
巨大な商業施設が商圏を内側に取り込み周囲の店は静かに役割を失っていく。
それを共存と呼ぶのは少し言葉が優しすぎる。
飲み込まれた側から見ればそれは共存ではなく単なる消失だ。
もちろん例外はある。
例えば丸亀町商店街のように再開発とテナント誘致行政と地元の強力な連携によって商店街そのものを再設計し直したケース。
だがあれは自然に共存したのではない。
多額の投資と長い時間そして相当な覚悟で作り替えた結果だ。
裏を返せばそれだけの条件を揃えなければ成立しない時点でもはや一般論とは呼びにくい。
データを持ち出すまでもない。
かつて活気のあった通りから音が消え看板が色褪せシャッターが閉じたままになるまでの過程を私たちは何度も見てきた。
そこに共存という言葉が入り込む余地はほとんどなかった。
別に今さらその卒論を否定したいわけではない。
むしろあれはあれで正しく書かれた文章だったのだと思う。
ただ共存できるという言葉が可能性なのか現実なのかを曖昧にしたまま置かれていたことがずっと引っかかっている。
あのときの違和感は結論の正誤ではなく現実との距離だったのかもしれない。
そしてその距離だけが今も喉の奥に小さな骨のように残り続けている。