ふとした瞬間に妙に遠い時代へ思考が跳ぶことがある。
もし縄文時代の赤ん坊が何の前提もなく現代に放り込まれ今の教育を受けたらどうなるのかという少しばかり不遜な問いだ。
結論は拍子抜けするほど単純だと思う。
その子は私たちと同じようにスマホを指で滑らせテストの点数に一喜一憂しSNSの通知に心を乱される。数千年という時間は人類の進化のスケールでは誤差に近い。脳というハードウェアは木の実を探し獲物の気配に神経を研ぎ澄ませていた時代からほとんど更新されていない。
変わったのはその上で動くソフトウェア。狩猟採集の知恵は数学や法律や資本主義に置き換わり部族の掟は就業規則や税制へと姿を変えた。
私たちは進化したから現代社会を理解できているのではない。単に膨大な他人の思考の成果物を効率よくインストールしているに過ぎない。
ここで少しだけ冷静になるべきだろう。私たちは自分の能力で生きているつもりで実際には借り物のOSに依存している。そしてそのOSは容赦なくアップデートを要求してくる。
新しいルール、新しい常識、新しい不安。だがそれを処理しているのはあくまで旧式のまま据え置かれた脳。
この構造を直視すると頑張りが足りないという自己批判はだいぶ的外れに見えてくる。そもそも処理能力の設計思想が違う。SNSの通知も締め切りも複雑な制度も本来は想定外の負荷。言ってしまえばスペック外運用。
それでも私たちは今日もフリーズせずに動き続けた。多少のラグやバグを抱えながらも致命的なクラッシュを回避している。それだけで十分に評価に値する。
だから無理に自分をアップグレードしようとする前に一度だけ電源を落とした方がいい。縄文仕様のままでも休ませれば回復する。むしろ休ませないことの方がよほど非合理。
デジタルデトックスという言葉は少し意識が高すぎる。要するに電源を切るだけの話。
そうやって古くて頼りないがまだ壊れていないこの脳を明日もなんとか動かす準備をする。それで十分。