路上で目にする原付の風景。
その多くが選んでいるのは頭頂部を覆うだけのいわゆる半ヘル。
法定速度は時速30kmという建前があるものの現実の交通の流れはそれを許さない。気がつけば彼らもまた時速50km近い車列の一部として飲み込まれている。その中でひとたびバランスを崩せばアスファルトに叩きつけられるのは生身の身体。
あの薄いプラスチックがどこまで命を守れるのか。想像するまでもなく答えはほとんど出ている。それでもなお最低限の防御すら軽視する姿を見ると安全という概念がいかに曖昧に扱われているかを思い知らされる。
さらに妙なのはそのヘルメットの被り方。
ツバを後ろに回すスタイル。キャッチャーマスクでも被りたいのかあるいは仲間内で共有されたそれっぽさの演出なのか。理由はどうあれ外から見ればそれは合理性の欠片もない。その姿には言葉にしづらい滑稽さと危うさが同時に漂っている。本人にとっては些細な選択でもその積み重ねがいざという時の結果を決定づける。
そんな他人の無防備さを冷ややかに眺めている一方で自分の内側もまた制御しきれていない。
数日前のトレーニングの残像が腹筋の深い場所にしつこく居座っている。表面ではなく奥に刺さるような鈍い痛み。それが単なる筋肉の適応反応なのかそれとも微細な損傷のサインなのか判別がつかない。
このわからなさこそが厄介。見えない部位の違和感は確証のないまま不安だけを増幅させる。頭の中では成長という希望と故障という最悪のケースがせめぎ合いどちらにも振り切れないまま時間だけが過ぎていく。
結局のところ外の世界も内側の身体も同じように不確実性に満ちている。
誰かの軽率さに違和感を抱きながら自分自身のコンディションすら完全には把握できていない。この二重構造はどこか皮肉でもある。
他人に安全を求める前に自分の身体の声を正確に読み取れるのか。その問いを突きつけられている気がする。だからこそ今は無理に答えを出そうとはせずこの痛みがただの通過点であることを静かに確認していくしかない。