テニスをやっていて、毎回嫌というほど思い知らされることがあった。
左利き相手はとにかくやりにくい。
こちらの感覚でここに来るだろうと予測したボールが微妙に違う角度から飛んでくる。回転の入り方も逆。特にサーブやクロスラリーになると、その違和感は顕著。頭では理解していても身体が反応を間違える。あの一拍ズレる感覚は何度対戦しても完全には慣れない。
面白いのは左利き同士でも同じように左はやりにくいと感じるらしいこと。結局のところ世界は圧倒的に右利き基準で回っている。だから左利きですら普段は右利き相手の経験ばかり積むことになる。誰も左利きへの耐性を十分に持っていない。その希少性自体が戦術的なアドバンテージになっているわけだ。
この構造は現代スポーツに限った話ではない気がする。
もしこれが命のやり取りをする時代の武術や剣術だったらどうだったのか。初見の動きに対応できなければそのまま死に繋がる世界だ。そう考えると左利きの剣士という存在はそれだけで相当なバグだったはずだ。
構えが逆。斬撃の軌道も逆。相手の防御や反射が一瞬遅れる。その一瞬が致命傷になる。現代スポーツならやりづらいで済むが昔ならそれがそのまま生死を分けた可能性がある。
ただここで歴史特有の問題が立ちはだかる。矯正。
昔は今以上に右利きこそ正しいという価値観が強かった。集団戦を前提とした軍隊なら一人だけ動きが逆では陣形に支障が出る。盾の持ち方、刀の差し方、隊列の向き。すべてが右利き前提で最適化されている。
有名なのが中世ヨーロッパの城に多い螺旋階段だ。多くは右回りに作られており上から降りる防衛側の右利きが剣を振りやすい構造になっていると言われる。つまり建築そのものが右利き優遇で設計されていた。
そう考えると左利きという才能は同時に規律を乱すノイズでもあったのだろう。せっかくの優位性も組織運用の都合で右へ矯正されて消えていく。効率化された集団の中では個人の異質さはしばしば切り捨てられる。
だからこそもし矯正を拒み左を貫いた剣士が本当に存在したならそれはかなりロマンのある存在。集団最適化の圧力を受けながらそれでも自分の特性を武器として残した人間。まさに歴史の仕様外、例外処理のような人物だったに違いない。
筋トレをしているとフォーム、可動域、重心、軌道と正解に身体を寄せていく作業が延々と続く。もちろんそれは合理的だし怪我を避けるためにも必要なことだ。
けれど、だからこそ時々思う。
テニスコートで左利き相手に感じるあの計算が狂う感覚。あの不条理さにはどこか抗いがたい魅力がある。
効率化と最適化が進み切った現代だからこそ規格外の存在が生むノイズに人は無意識にロマンを感じるのかもしれない。