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事実上の宣戦布告【26/1/25】

日本の政治制度についてふと深く考えを巡らせていた。世間では「解散は税金の無駄遣いだ」「野党は解散権を縛るべきだ」という声が相変わらず大きい。

しかし本当にそうだろうか。イギリスの失敗例がすべてを物語っている。かつて彼らが解散権を制限し議会が自ら解散を決められないようにした結果何が起きたか。決められない政治、動けない政府、まさにゾンビ議会の惨状。

あれを日本で繰り返す必要はない。解散権は独裁を防ぎ、政治的閉塞感を打破してリセットボタンを押すための必要経費だ。もしそれが無駄な解散だというなら国民が選挙でその政権を落とせばいいだけの話であり権利そのものを奪うのは自殺行為に近い。

 

一方で今の二院制、特に参議院の在り方にはメスを入れるべきだ。衆議院が常に解散の緊張感に晒されているのに参議院が6年も不戦勝で安住できるのは長すぎる。

「一票の格差」を気にするあまり無理やり地方の県をくっつける「合区」などという小手先の策を弄するくらいならいっそ参議院の任期を4年に短縮し2年ごとに半数を改選して民意を確認するサイクルにすべきではないか。スピード感だけを上げ衆議院とは違う角度から民意を吸い上げる。それが現実的な落とし所だろう。

 

しかし制度以上に根が深くそして恐ろしいのは世代間の格差とそれが見えなくなっている現状。

今の日本で「消費税をゼロにする」と叫ぶポピュリズムが横行しているが私にはそれが現役世代への事実上の「宣戦布告」にしか聞こえない。リタイアした高齢層は所得税は関係なく消費税が主な負担だから減税を諸手を挙げて喜ぶ。しかしその財源を赤字国債で賄えばどうなるか。日本の信用リスクが意識されいずれ金利が上がる。金利が上がれば巨額の住宅ローンを抱える現役世代は即死する。返済額が跳ね上がり新しい家は買えず不動産市場は冷え込み街の新陳代謝も止まる。結果として残るのはボロボロになったインフラと価値の下がった家そして返済不能のローンだけだ。

 

恐ろしいのはこの「負のドミノ倒し」を理解している人があまりに少なすぎることだ。 目先の数百円、数千円の減税という飴玉に目を奪われ将来の数千万円の損失(金利上昇リスク)に気づかない。この何もわかっていない層の数に我々現役世代は圧倒されている。民主主義のコストとして選挙費用を払うのは構わない。だが他者の無知によって自分たちの生活が破壊される未来をコストとして支払わされるのはあまりに理不尽で耐え難い。

政治をリセットする権利(解散権)は守るべきだがその権利を行使する側のリテラシーがリセットされない限りこの国は静かにしかし確実に老いていく。

 

バブルの幻影か【26/1/24】

金利の話を突き詰めていくとどうしても日本経済の構造的な弱さにぶち当たってしまう。かつてバブルの頃、定期預金に100万円を預けておくだけで数年後には数万円の利息がついたという話は今の僕たちからすればまるで桃源郷のお伽話のように聞こえる。

確かに今少しずつ金利は上がっている。けれどこの2026年の金利上昇はあの頃のようなイケイケな成長の果実ではない。物価高と円安という外圧に背中を蹴飛ばされ日銀が渋々アクセルを踏んだ結果の悪い金利上昇のような気がしてならない。

 

世界を見渡せば巨大な綱引きが行われている。日銀はようやくマイナス金利の世界から脱却し普通の国に戻ろうとしているが海の向こうではトランプ大統領がFRBに対してもっと金利を下げて景気を爆発させろと無茶振りを続けている。

このチグハグなパワーバランスの真ん中で行き場を失った日本円だけがひとり負けを喫し1ドル150円から160円という地盤沈下を起こしているのが現実。本来なら130円くらいが適正でそこまで戻ればガソリン代も電気代も下がって生活は楽になるはずだ。けれど今の日本には通貨をそこまで押し戻すだけの稼ぐ力が不足している。

 

ニュースでは5%の賃上げなんて景気のいい数字が踊るけれど現場の空気は少し違う。 利益が出すぎて還元しているのではなく上げないと人が来ないから倒産覚悟で上げざるを得ないという悲鳴に近い事情が透けて見える。そしてついに最後の聖域だった家賃までもが動き出した。法律や慣習で守られ長らく上がることのなかった固定費が上がり始めたことの意味は重い。それは長く浸かっていたデフレというぬるま湯が完全に排水され寒風吹き荒れるインフレの荒野に放り出されたことを意味する。

 

金利がつくのは嬉しい反面それは現金の価値が目減りするスピードに追いつこうとする必死の抵抗でもある。国や会社に守ってもらう時代は終わり自分で自分の資産と生活を守らなければならない時代が2026年にして本格的に到来したのだ。

じわじわと上がる金利の数字を見つめながらこの新しいゲームのルールにどう適応していくべきか腰の痛みを堪えつつ深く考えさせられる。

 

魔女のサンダガ【26/1/23】

冬の寒さが本気を出してくると毎年のようにこの儀式がやってくる。

腰痛。

それも重たいものを持ち上げたとか激しい運動をしたとかそんな名誉ある負傷ではない。きっかけはたった一回のくしゃみ。生理現象として空気を吐き出した瞬間、腰の深層で何かが弾け鋭い電流が走った。欧米で魔女の一撃と呼ばれる急性腰痛症だがまさに目に見えない悪魔に背後からナイフで刺されたような衝撃。

 

今の状態は悲惨の一言に尽きる。歩けないことはない。けれど上半身を地面に対して垂直に立てることができない。常に前傾姿勢ひらがなの「く」の字で固まったままそろりそろりと移動するしかない。さらに悪いことに今回は痛みだけでは済まない。 腰から尻そして左足の指先にかけて嫌なピリピリとした痺れが走っている。坐骨神経が圧迫されているサイン。神経という見えない配線がショートして下半身の制御システムにエラーを吐き出し続けている感覚。これが地味にしかし確実にメンタルを削ってくる。

 

専用の医療用コルセットが見当たらないので苦肉の策として革製のトレーニングベルトを巻いている。本来は高重量のスクワットやデッドリフトで腹圧を高め怪我を防ぐための攻めの装備。それをくしゃみで壊れた腰を守るための守りの装備として日常生活で巻いている自分の姿が情けない。分厚い革の圧迫感だけが今の頼りない腰を物理的に支えてくれている。

 

これといった解決策がないのが一番の絶望。

整形外科に行っても湿布と痛み止めを渡されるだけで劇的に治る魔法はない。安静にと言われても生活がある以上ずっと寝ているわけにもいかない。人間が四足歩行から二足歩行に進化した時点で腰というパーツには構造的な無理がかかっているという説があるがまさにその設計ミスを呪いたくなる。

根本的な解決が見えないままただ嵐が過ぎ去るのを待つように痛みが引くのを待つしかない日々。革ベルトで腹を締め上げながら次のくしゃみが出ないことを祈る。

 

飼い殺し【26/1/22】

阪神タイガースの佐藤輝明選手がメジャー移籍を視野に入れたポスティング交渉のために契約更改を越年したというニュース。球団としては主力を手放したくないしファンとしては寂しい。その感情は痛いほどわかるが一人のビジネスパーソンとしてそしてアスリートとしての彼の立場をシミュレーションした時彼が行きたいと主張するのはあまりに正当で合理的だと言わざるを得ない。

 

最大の理由は残酷なまでの時間の価値。彼は現在26歳。今海を渡ればフィジカルの全盛期をメジャーという最高峰の舞台で迎えられる。

しかし球団の保有権が切れる海外FA権の取得を待っていれば彼は30歳を超えてしまう。 今のMLBのトレンドにおいて「20代中盤」と「30歳過ぎ」の野手では市場価値が天と地ほど違う。契約年数そして生涯賃金においてその差は数十億円下手をすればそれ以上になるだろう。

若いうちに行かせてやりたいというのは単なる人情論ではなく彼の人生設計における極めてシビアな経済的判断なのだ。

 

この問題を深掘りするとNPBの構造的な歪みに行き着く。職業選択の自由が保障されている現代日本においてドラフトで球団を選べずに入団しその後9年間(大卒でも7~8年)も海外移籍を制限される今のルールは法的に見ても「限りなく黒に近いグレー」ではないだろうか。

世界的な視点で見ればこれは労働者の権利を不当に拘束していると取られても仕方がない。選手会も独占禁止法違反の可能性を指摘しているが旧態依然とした組織の論理で若者の可能性が飼い殺しにされる現状には疑問しか残らない。

 

そして私が何より危機感を覚えるのはNPBという組織の「遅さ」と「閉鎖性」だ。いまだに外国人枠を設けて日本人選手を過剰に保護しているが本来であれば門戸を開放しアジア全体を巻き込んだ「MLBに対抗できる経済圏」を作るべきではないか。 隣の韓国リーグを見てほしい。 彼らはロボット審判をいち早く1軍に導入し試合のテンポアップやエンタメ性の向上に貪欲。意思決定のスピードにおいて12球団の合議制で何も決まらないNPBとは雲泥の差がある。ルールも環境も世界基準に近づけているKBOの方が外国人選手にとってメジャーへのステップアップとして魅力的に映る日も近いかもしれない。

 

実力はまだ日本が上だとあぐらをかいている間にシステムと魅力で追い抜かれる。

佐藤選手のポスティング問題は単なる一選手のわがままではない。変化を拒み既得権益と古い慣習にしがみつくNPBに対する強烈な警鐘。

いつまでも鎖国をしている場合ではない。選手が人生をかけて最高峰を目指すようにリーグそのものも世界を見据えて変わらなければ日本の野球はただの「ローカルな娯楽」になってしまうだろう。

 

財政ポピュリズム【26/1/21】

選挙の足音が近づくにつれ街にはまた耳触りのいい言葉が溢れ始めた。

右を見ても左を見ても判で押したような「消費減税」大合唱。

本来なら歓迎すべき話なのかもしれないが正直なところ各党の公約を見比べるたびに、期待よりも苛立ちが勝るのを感じている。なぜ彼らはこうも安易に税収を減らすというカードを切れるのか。まるで打ち出の小槌でも持っているかのような振る舞いに底知れぬ恐怖を覚える。

 

今の日本が置かれている状況は決して平時ではない。日銀が国債の50%以上を買い占めるという世界的に見ても異常な禁じ手を使ってなんとか金利を抑え込んでいる状態。いわば薄氷の上で巨額の借金を抱えながらギリギリのバランスで立っているに等しい。

そんな状況下で最も安定した財源である消費税を削る?それは景気対策という名目を借りた国家ぐるみのギャンブル。確たる財源の裏付けもなくリスクの説明もしない。

減税すれば景気が良くなって税収も後から増えるという希望的観測あるいは妄想だけで国家運営を語るのはあまりに無責任ではないか。

 

もし金利が急騰したらどうするつもりなのか。通貨の信認が失われ円が紙屑同然になった時その責任を誰が取るのか。

間違いなくそのツケを払わされるのは数年後の私たちでありまだ選挙権すら持たない将来の世代。

痛みを伴う改革や直視すべき財政の現実から目を背け目先の票を買うために減税を叫ぶ。これを「財政ポピュリズム」と呼ばずして何と呼ぶのだろう。

彼らは本当に何も考えていないのかそれとも分かっていて国民を欺いているのか。 どちらにせよその罪は重い。

 

甘い公約の裏にある致命的なリスクを見透かし冷徹に自衛策を講じなければならない時代が来ている。

国がなんとかしてくれるという甘えは捨てよう。政治家の思考停止に付き合って共に沈むわけにはいかないのだから。

有権者として票を投じると同時に投資家として生活者として最悪のシナリオに備える。 それがこの狂騒的な選挙戦を生き抜くための唯一のリアリズム。

 

クーリングオフ【26/11/20】

iPhoneのフィルムが割れた。それだけでも十分に憂鬱なのに頼みの綱であるヨドバシカメラのサイトを観れば「取り扱い終了」の非情な宣告。iPhone15Proともなれば市場では既に旧機種扱いなのだろうか。仕方なく現代のインフラであるAmazonに頼ることにしたのだがこれがすべての間違いの始まりだった。

 

深夜睡魔と戦いながらスマホを操作していたのがいけなかった。意識が半分飛んでいる状態でポチった商品はあろうことかサイズ違いの別物。

「あ、間違えた」と気づいたのは注文確定の直後だった。すぐに履歴を開きキャンセルボタンを押す。その間わずか1分足らず。これなら間に合うはずだ。しかし画面に表示されたのは「キャンセルできませんでした」という冷徹な文字列だった。

早すぎる。こちらのミスを修正する隙を与えないほどAmazonの物流システムは優秀でそして慈悲がない。「出荷準備中」というステータスはもはや鉄壁の牢獄だ。ロボットたちが秒速で商品をピックアップし箱に詰めてしまったのだろうか。その有能さが今だけは心底恨めしい。

 

ふと「これってクーリングオフできないのか?」という疑問が頭をよぎる。いらないものに2000円近く払うなんてドブに金を捨てるようなものだ。しかし残酷な現実はここにもある。基本的に通信販売には法的なクーリングオフ制度は適用されないのだ。訪問販売のような不意打ちとは違い通販は自らサイトにアクセスし自らの意思で注文ボタンを押したとみなされるからだ。もちろんAmazon側のサービスとして返品は可能だが未開封なら全額返金でも返送料はこちら持ちになるケースが多い。手間と送料を天秤にかけるとどっちが得なのかわからなくなる。

 

「まあブログのネタになったからいいか」

そう自分に言い聞かせて心を落ち着けようとするが電卓を弾けば答えは出ている。たかが数百文字の愚痴日記に原価2000円は高すぎる。コストパフォーマンス最悪の記事だ。 届いたサイズ違いのフィルムは愚かさの記念碑として部屋の隅に転がることになるだろう。

「深夜の寝ぼけた買い物は酔っ払って契約書にサインするのと同じ」

高い授業料を払って得た教訓を割れた画面のままメモに残した。

 

名前について【26/1/19】

今回の選挙戦における野党第一党と公明による連携そして彼らが自らを「中道」と定義してラインを引いたことについて強烈な悪質さを感じている。

政治において言葉の定義は武器。彼らが自分たちの立ち位置を勝手にど真ん中(中道)だと宣言することでそこから少しでも外れた意見を持つ大多数の人々が自動的に「右寄り」や「極端な人たち」という枠組みに放り込まれてしまうからだ。

 

これは議論を深めるためのポジショニングではない。単なるレッテル貼りであり自分たち以外を異端視させるための卑怯な罠。基準点を恣意的にずらすことで本来は穏健な保守層やリベラルな層までをも偏った人たちに見せかける。比較第一党という責任ある立場の政党がこうした社会を分断させるような手法をとるのは禁じ手ではないだろうか。 国民を統合するのではなく「あいつらは右だ」「あいつらは過激だ」と指差すための基準を作るなんて政治の劣化もいいところだ。

 

そして何よりその連携や運動につけられた名前が最悪。具体的な名称は口にするのも憚られるがその響きには右派に対しても左派に対してもそして有権者に対しても敬意が感じられない。

中道を謳いながらその実は「自分たちが正義の基準である」という傲慢さが透けて見えるからだろうか。右にも左にも失礼だというのはそれぞれの思想を持って真剣に国を考えている人たちを単なる座標軸の端っこに追いやる行為だからだ。

 

今は現在進行形の渦中にいるから誰もこの状況を客観的に総括できない。けれど近い未来歴史がこの時代を振り返った時この強引なライン引きはどう評価されるのだろうか。

社会の分断を決定づけた愚策として記録されないことを祈るがあの名前を見るたびに、どうしようもない不快感が胸に残る。