映画や舞台のラストシーンで描かれる「もしもこうだったら(あり得たかもしれない未来)」という表現について、ふと考えていた。具体名は伏せるけれどそこには大きく分けて3つのパターンがありそれはそのまま僕たちの人生の縮図。
1つ目は「双方」で見つめるIf。いわゆる「選択の物語」。別々の道を選んだ2人がラストで一瞬だけ「もしあのまま一緒にいたら」という幸せな幻を共有する。これは互いにそれぞれの道で成功し生きてこそできる大人の答え合わせだ。言葉を交わさずとも目配せだけで「あの時違う道を選んでいれば一緒にいられた。でも今の道を選んだからこそ今の私たちがいる」と認め合う。それは痛みを含んだ美しい「サヨナラ」であり互いの人生の肯定だ。かつてのパートナーや戦友と街ですれ違った時に感じる「これでよかったんだ」という感覚に近い。
2つ目は「単方」で背負うIf。「喪失の物語」。残された者が一人で「もし私が出会わなければ相手は無事だったかもしれない」という幻を背中を丸めて想像する。相手はもういないためこれは届かない一方通行の問いかけ。けれどそれは後悔であると同時に相手の分までその「業」を背負って生きていくという痛々しくも力強い誓いでもある。取り返しのつかない過去を一人で背負いそれでも日常を続けていく僕たちの姿そのものだ。
3つ目は「第四の視点」に見せるIf。「救済の物語」。演劇などでよく見る悲劇的な結末の直後に何事もなかったかのような笑顔でキャスト全員がダンスや歌を見せるパターン。これは物語の整合性よりもそれを見ている「観客」を悲しませないための優しさだ。「物語の中では叶わなかったけれど私たちは笑顔ですよ」と見せる究極のファンサービス。これは現実世界で言えば心の中は泣いていても家族や周囲のために気丈に振る舞い笑顔の自分を演じる瞬間に重なる。
こうして整理してみると「あり得たかもしれない未来」を想像することは単なる現実逃避ではないことがわかる。それは選ばなかった道を肯定し変えられない過去を背負いそして誰かのために今日を演じるための人間に備わった必要な機能なのだろう。
僕たちは人生という長い時間の中でこの3つの視点を何度も行き来しながら、それぞれのエンディングへ向かって歩いているのかもしれない。