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猫と暮らしていると【25/1/14】

猫と暮らしていると「猫って人をよく見て判断してるなあ」と思う。こいつは餌をくれる奴だとか、近くにいても怒らない奴だとか。完全に見抜かれている気がする。だからこそ、舐められちゃいけない。これ、自然界の摂理だ。猫に舐められたら最後。

 

そのためには細心の注意を払い続けなけばならない。たとえば「ちゅーる」をあげるとき。ここが一番の勝負どころだ。ちゅーるを手にしたら、まずは後ろ手に隠す。そう「たまたまちゅーるがあっただけ」感を出さないといけない。そして、猫に気づかれないように近づく。ここでバレたら負けだ。

 

次に、さりげなく封を切る。これも大事だ。「ちゅーるが開いた? たまたまだよ?」っていう空気を漂わせながら、ゆっくりと猫様の口元に近づける。そして、最後までちゅーるを絞り切る。猫の目線に立って、丁寧に、自然に。

 

でもここで一番注意。うっかり猫様がちゅーるのついでに指を舐めようものなら、猫様は大変機嫌を損ねる、舐めたいのはてめーの指じゃないんだよって。

 

だから、手元の動きには細心の注意を払いながら、猫様にちゅーるを献上する。この一連の流れ、まさに猫との信頼関係を築く戦いだ。気を抜けば舐められる。その後の生活にも影響する。ちゅーるの渡し方にかかっていると言っても過言ではない。

 

猫様との暮らしは楽しいけど、こうやって日々の小さな駆け引きに全力を注ぐのも一興だ。ただ一つだけ言えるのは、「御猫様に舐められちゃいけない」。これは、人間として生きる上での教訓かもしれない。

 

『FPU ~若き勇者たち~』感想 ※ネタバレ注意

eiga.com

映画.comさんに記載されているあらすじ

中国の組織警察隊FPUは国連から要請を受け、政府軍と反政府組織の武力紛争が激化するアフリカへ派遣される。チームワークを重視する分隊長ユーや正義感が強い狙撃手ヤンら精鋭メンバーたちは最も危険な地域に足を踏み入れ、逃げ場をなくした人々の安全確保に尽力する。大量虐殺やテロ攻撃、暗殺、暴動、人質事件などさまざまな困難に立ち向かい、何度も命の危険にさらされながらも、現地の人々の平和を取り戻すため、そして隊員全員が無事に帰国するために戦い続ける。そんな彼らの前に、思わぬ運命が待ち受けていた。

 

 

結論から言うと『FPU ~若き勇者たち~』は正直言って面白くなかった。いや、かなりの駄作だったと言っていい。レイトショーで1300円…観終わった後に感じたのは、虚無感と疲労感だけ。

 

まずストーリーパートだが、これは「ある」と言えるのだろうか?いやない。登場人物が多すぎて誰が誰だかよくわからないし、悪役の動機や背景が描かれないからよくわからないまま一方的な正義を見せつけられる。そしてつぎはぎした何かをただ見せられたようなだけ。途中で仲間が何人か死ぬがその描写もよくわからない。特にある女性の死については誰も墓参りに行かない。けれども別の殉職者に対してはわざわざ墓参りシーンが描かれている。「この描写必要だった?」と思わずにはいられない。ナチュラルに差別的とすら感じる。他にもツッコミどころは多数ある。あの外国人の意味ありげなタトゥーなんだったん??

 

やっぱりツッコむ。重要参考人を連れて少数精鋭で敵陣を突っ切るな!最初から戦力投入して挑めよ。そして台風?じゃあ台風を活かして作戦立てろよ!なんで台風に巻き込まれてるの?意味わからないんですけど。この展開で満足できるわけないじゃん。あたまのはてなを消してくれ。

 

そしてアクションパートについて。この映画でやる必要があるのかと思わせるほど凡庸で、むしろFPSのゲーム実況でも観ていた方が数倍マシだったかもしれない。「かっこいい部分を詰め込んでみました感」が強すぎてむしろ薄っぺらさを助長している。売りの戦闘シーンでこんな気持ちになるんだから金返せ案件です。

 

あと原語なのに棒読み感がかなりわかる。中国人俳優は気にならないけど、現地の黒人役者はひどい。たぶん役者じゃなくて、そこらへんにいる一般エキストラ使ったんじゃないかな?と思わせるくらい。

 

唯一良かったのは映画の尺が短かったこと。しかしそれを帳消しにするかのようにエンドロールがやたらと長い。体感15分くらいあったのではないかというくらい引っ張られストレスしか感じなかった。普通1曲だろなんで1曲、2曲そして映画のサントラ集になるんよ?意味わからないんですけど。

 

一番の問題点はどことなく漂う中国のプロパガンダ臭がすごかったところ。映画全体が日本に住む中国人向けに作られたような雰囲気があり、まだ日本語字幕付きで上映されている現状だが、数年後には字幕なしの中国映画が日本の映画館を占拠する未来すら想像してしまう。日本映画が予算不足に苦しみ興行側もお金のためなら何でもするという現状が浮き彫りになった気がする。かなり警戒しないといけない。

こんな映画が全国100スクリーン以上で公開されてるって相当末期な気もするけど。

 

かつて海外から渡ってきた映画は「面白い」というのが相場だった。この映画を観てそんな先入観はもはや通用しないと痛感させられた。海を越えてきた作品がやるせなさを抱かせる日が来るとは思わなかった。

 

夫婦別姓について考える【25/1/13】

現代の日本では夫婦は同姓であることが法律で定められている。婚姻すればどちらか一方の姓を名乗る。この「夫婦同姓」という制度に疑問を抱く人も増えている。

 

夫婦別姓に反対する人たちの多くは伝統や戸籍制度を理由に挙げる。他にも「子どもはどちらの姓を名乗るのか?」「離婚したときに子供の姓はどうするのか?」といった現実的な問題も議論される。たしかに言いたいことはわかる。夫婦別姓が実現した場合新たな問題が産まれ解決できない課題が出てくるのは間違いない。

 

それでも私は「別姓でもいいんじゃない?」と思っている。理由はシンプルで結婚という制度で長年使ってきた姓を変えるのは、どう考えても不自然だと思うからだ。18年以上使い続けた名前をたかが制度のために手放さなければならないというのはどうにも腑に落ちない。

 

もっとわかりやすく逆の状況だったらどうだろうと置き換えてみる。仮に夫婦別姓が当たり前だった世界で法律が変わり「これからは同姓にしてください」と強制されたら多くの人が「何それ?」と思うだろう。同姓を選ぶか別姓を選ぶかもっと柔軟に運用できる仕組みがあってもいいはずだ。

 

もちろん現行制度がすべて悪いとは思わない。今の形で問題なく暮らしている人もたくさんいる。だが別姓を望む人にとっては生きづらい制度であることも事実だ。法律や制度が変わっても人の本質が変わるわけではない。だからこそ、選択肢を増やして誰もが生きやすい社会を目指すべき。

 

夫婦別姓が実現するかどうかはまだわからない。議論は続いていくだろうし、賛否両論が飛び交う中で答えを見つけるのは簡単ではない。それでも一つ確かなのは、どんな制度であっても誰かを不自由にしたり生きづらくするものであってはならないということ。柔軟な選択肢が用意される未来を願いたい。そうなるはずだ。

 

QR決済がスムーズじゃない日のために【2025/01/12】

QR決済が当たり前になった今日この頃。スマホ一つで支払いが完結するのは便利だと思う。一方でいざその場面になるとストレスを感じることがある。

 

例えば、アプリを開いた瞬間に「IDとパスワードを入力してください」と要求される場面。セキュリティのためだと分かっているが支払いのタイミングでこれをやられると正直イラっとする。IDもパスワードも長くて複雑、そして慌てて打ち間違える。焦るほど間違えて「ぐぬぬ」となる。そんな経験は一度や二度ではない。

 

なので別の決済アプリもインストールしておくのが賢明だろうとは思う。でも、こういう「備え」を重ねていくと結局管理が煩雑になってしまいまた新たなストレスが生まれる。

 

さらにイライラポイントが増えるのは通信トラブルのときだ。アプリ自体が開かないとかQRコードが読み込めないとかそんなときはもはやお手上げ。仕方なく現金を出すしかないがもし現金がなかったらどうなるのだろう?まだそんな場面に遭遇したことはないが、考えるだけでゾッとする。

 

一応、自分なりに対策としてサブeSIMを利用している。QR決済だけのためじゃないが、これには年間数千円のコストがかかる。年に一度あるかないかのトラブルに備えてこれだけの費用を払うのは、正直バカバカしい気もする。それでも「もしものとき」を考えるとやめられない。ある意味自分がQR決済の利便性に踊らされているようなものだ。

 

QR決済は便利なはずなのにその便利さがほんの少し崩れるだけで、こんなにも不安定になる。それなら現金を持ち歩けば?と思わなくもないが、財布が軽くなる快適さを一度味わってしまうともう元には戻れない。戻りたくない。だからこそ決済の瞬間にストレスなく使える仕組みをもっと整備してほしい。

 

自転車と車の危うい共存【25/1/11】

車を運転していると自転車との「抜きつ抜かれつ」に遭遇することが多い。自転車を追い抜いたはずが信号待ちの間にまた前に出られる。その繰り返しだ。抜かすたびに「前に出なければいいのに」と思うが、どうもそんな意識はなさそうだ。

 

それだけならまだしも左折しようとしている車の横をスルリと抜けていく自転車を見るとヒヤリとする。巻き込み事故の危険があるし、見えていてもギリギリのタイミングだと神経がすり減る。まるで命を軽く賭けているようにも見える。命は一つしかないのに、こんな些細なことでリスクを背負うなんて理解に苦しむ。

 

さらにイヤホンをしながら運転している人も多い。車の音が聞こえないまま、ただ無造作に走り抜ける。もし何かあれば責任を問われるのは車側だが、事故が起きてからでは遅い。こちらがどれだけ注意していても、完全にリスクを防ぐことは難しい。

 

もちろん、すべての自転車利用者が悪いわけではない。しかし無謀な走行やルール違反が目立つのも事実だ。自転車も車もルールを守ってこそ共存できる。それを無視されると「こちらがいくら気を付けても無意味では」と思わずにはいられない。

 

きっとこの声も届かないのだろう。両耳にイヤホンをしていることだし。

 

ブログを書くということ【25/1/10】

ブログを書くって結局、自分が何を考えているかを言葉にする作業だと思う。書いているうちに「自分はこんなことを思ってたんだな」って気づくこともあるし、それを700文字とか1000文字にまとめると頭の中がスッキリする。さらに書いた内容が会話のネタとしてストックされるのもありがたい。

 

最近は会話にしたときの流れをそのまま文章に落とし込む方法を試している。自分の中で考えたことを文章にしてまた頭に戻す。正直ちょっと効率が悪いようにも思えるけど自分にはこれが合っている。それが自分なりのやり方。

 

ただ、季節の話題って旬が短いから難しい。「寒い朝にストーブの前から離れられない」とか「今年は風邪が流行ってるね」なんて話は春が来たらもう使えなくなる。でもそれでいい。ブログってその時その瞬間の自分を残す場所だから。

 

そしてその結果書いた文章が誰かの目に留まって少しでも影響を与えられたら、その文章も幸せだと思う。どこかの誰かに「わかる」と共感されたり、「そんな考え方もあるんだ」と思われたり。それだけでブログを書くことに価値がある。

 

ブログは未来の自分への記録でもあり誰かへの小さなメッセージでもある。自分のために書いた文章が誰かの心に少しでも残るならそれはとても素敵なことだと思う。だからこれからも書きたいときに書きたいことを、自分のペースで続けていきたい。

 

新聞記事が消える不条理【25/1/9】

新聞記事をスクラップするのが好きだった。昔は紙の切り抜きをアルバムに貼り付けていたが今はデジタル全盛の時代になり、ヘッドラインとURLをスプレッドシートに記録している。過去の記事を見返すたび「こんなことに関心があったのか」と自分を振り返るのが面白い。

 

ところが最近その楽しみに水を差す出来事が起きた。わずか2週間前に読んだ記事のURLを開こうとするとリンク切れで閲覧不能になっている。新聞社が記事をあっさり非公開にしてしまったのだ。毎月きちんと購読料を払っている側からすれば新聞社の公式サイトでこれをやられるのは不信感しかない。Yahoo!ニュースのような二次配信サイトなら期間限定公開が前提という仕組みで納得できるが、朝日や毎日といった新聞社が堂々と記事を消すのは話が違う。

 

「知る権利」を掲げるメディアが、自ら「消す権利」を行使するのはどういう了見なのか?「忘れられる権利」という言葉があるがそれはあくまで個人情報の永続的晒しを防ぐための権利であって新聞記事が短期間で消える行為を正当化するものとは思えない。もし記事内容に誤りがあるなら訂正記事を出せばいいし削除するなら理由くらい明記してほしい。何も言わず情報を引っ込める行為は「報道しない権利」を濫用しているように見える。

 

記事は読者にとって財産だ。スクラップして蓄積することで自分の興味や問題意識を確認できるし、後日その記事を再考する契機にもなる。それを一方的に消されてはかなわない。仕方なくこれからはPDFで記事を保存することにする。リンク切れで振り回されるよりは手間がかかっても確実だろう。

 

新聞とは本来「知る権利」をサポートし、情報に自由にアクセスできる存在であるべきだ。報道の自由を主張するのであればその自由の一部として読者がいつでも記事にアクセスできる仕組みを用意してほしい。紙の切り抜きは手元で生き続けるがデジタルの記事が次々と消えていくようでは新聞というメディアそのものの価値が、時代のうねりの中で薄れていくばかりだと思った。